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近江にあった永原(ながはら)城の所在地などのほか、その歴史を知りたい。(滋賀県立図書館)

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『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「野洲郡野洲町永原」、創築年代は「室町時代中期」、創建者は「永原氏」、形式は「平城」です。城の歴史は「永原城は、一般に永原氏代々の居城と伝えられてきたところで、上永原城跡の東六〇〇mの所に位置しており、堀の多くは埋め立てられ、竹林などとして残されている。『野洲郡史』掲載の「中島重行蔵図」によると、城は本丸・二の丸が一体で土塁と堀に囲まれ、その外に三の丸がある。城主の永原氏はその出自が不明確であるが、永徳(一三八一-八四)・明徳(一三九〇-九四)の合戦で軍功をたてた永原大炊助宗行の時、当野洲郡内で十八郷の増地を受けた。以降、武威ますます高まり、文明十二年(一四八〇)には越前守重秀が当城周辺の小堤・入日岡・田中江に城を構えて諸合戦に備え、その後も筑前守重頼の時には、栗太郡の勝部や甲賀郡石部からの道筋に当たる甲賀坂に城・砦を備えて、東山道の草津口や浜街道の木浜・赤野井にも守りを立て、広く野洲・栗太と甲賀の一部までもその勢力は及んでいた。しかし、永禄十一年(一五六八)の信長入江には六角氏と命運を共にして没落、元亀元年(一五七〇)には佐久間信盛が当城に在城した。天正元年(一五七三)、浪々の身にあった永原飛?助実治が信長から千石を得て再び城主となった。しかし実治は山崎の合戦で戦死したため、翌年には深尾清十郎が城主となり、文禄年間(一五九二-九六)には廃城となって草津市の芦浦観音寺の預かるところとなった。徳川時代になってからは、将軍上洛の宿舎として近江国内では柏原御殿・伊庭御殿と共に当地にも城跡を利用して永原御殿が築かれたが、貞享三年(一六八六)、幕府の命によって廃城となった。」とあります。なお、野洲郡野洲町永原は現在野洲市永原になっています。 参考資料: 1 日本城郭大系 11 新人物往来社 1980年 S-5200- 80 p.270, 参考資料: 2 滋賀県百科事典 滋賀県百科事典刊行会∥編 大和書房 1984年 S-0300- 84 p.537, 参考資料: 3 滋賀県中世城郭分布調査 3 旧野洲・栗太郡の城 滋賀県教育委員会∥編 滋賀総合研究所∥編 滋賀県教育委員会 1985年 5B-5200-3, 参考資料: 4 近江輿地志略 全 寒川辰清∥著 宇野健一∥改訂校註 弘文堂書店 1976年 S-2900-734, 参考資料: 5 野洲郡史 上 橋川正∥編 寺田精文堂 1972年 S-2120-1,

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