現尼崎市域の東側を流れる神崎川・左門殿川を渡る近世~近代初頭の渡し場としては、神崎の渡しと、尼崎城下の辰巳の渡しがあったことが知られています。
尼崎地域に残る近世の文書や記録のうえで、この2か所の渡し以外に猪名川・神崎川水系の渡し場があったという記録は現在のところ見つかっていませんが、長州藩毛利家が参勤交代で通る街道筋を絵図に記録した「行程記」(山口県文書館所蔵、『尼崎市史』第2巻折り込み図に尼崎周辺部分掲載)には、尼崎城下の北側から左門殿川を東に渡る船渡しが描かれています。また、明治期の地形図にも今福から対岸の佃に渡る道筋が描かれていることから、近世から近代初頭にかけて、この位置に船渡しがあったと考えられます。ただし、「宮の渡し」という名称を記したものはなく、大正期の地形図には神戸酢酸工業今福工場(塩野義製薬杭瀬工場の前身)から対岸の佃に渡る渡しの名称が「横渡」と書かれています。
加えて、大正2年(1913)11月2日に、今福にあった大阪合同紡績神崎工場の女性労働者18人が、通勤途上左門殿川の渡し船転覆により水死した事件が、『尼崎市史』第13巻所収年表に記録されています(典拠は当時の新聞である「神戸又新(ゆうしん)日報」記事)。このことから、国道2号建設とともに左門殿橋が架橋される昭和元年(1926)の直前頃まで、船渡しが続いていたのではないかと考えられます。なお、この事故の慰霊碑が、阪神千舟駅南西の佃墓地に建てられています。
こういった断片的な記事以外に、この渡しについて記録した史料は現在のところ見つかっておらず、「宮の渡し」という名称を記録したものもありません。今福から見て左門殿川の対岸にあたる佃には、神功皇后ゆかりの伝承で知られる田蓑(たみの)神社があり、佃側の渡し場は田蓑神社に近い位置であるため、「宮の渡し」という呼称は田蓑神社に由来する可能性も考えられます。
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