泉岳寺に高輪接遇所が設置された経緯については、『港区史 第3巻』p.346-365「第6章 幕末 第2節 幕末の公使館」に詳しい。
p.348に、イギリスは1858年(安政5)7月18日に日英修好通商条約を締結、とある。
p.350に、1859年(安政6)年6月、条約の発効にともなって江戸にイギリスの総領事、ラザフォード・オールコックが赴任し、高輪の東禅寺(現高輪3丁目)に総領事館(公使館)が開設された、とある。
p.358に、1860年(万延1)12月5日に発生した、ヒュースケン暗殺事件後、イギリスのオールコックは、江戸から横浜に退去して幕府に抗議の意を示し、警備陣の質的改善を強く求めた。またこの頃、幕府は各寺院に散在している外国公使館を一か所にまとめることを企図、外国側にその候補地として御殿場(現在の品川区北品川)を提案した、とある。
p.362-363に、1862年(文久2)12月12日、御殿山に建設中だったイギリス公使館の建物が長州藩士によって焼き討ち、とある。
1865年(慶応1)2月11日、イギリスの代理公使チャールズ・ウィンチェスターは泉岳寺を公使館として使用することの許可を幕府に求め、同年6月13日、イギリス公使ハリー・パークスが老中水野忠精(ただきよ)と会談。泉岳寺前の地所を公使館用地として希望し協議した結果、幕府は建築する建物をイギリスに仮公使館として貸し渡し、後に幕府の接遇所として使用することを決め工事を開始した。また、攘夷派浪士の襲撃を避けるため「接遇所」と称した。高輪接遇所は泉岳寺中門の東南、現在の区立泉岳寺前児童遊園を含む高輪2丁目15番の西北の一帯に位置しており、接遇所とその付属施設の面積は4993坪あまり、とある。
p.365に、明治後、外国公館は宮城(皇居)の近くに移転していき、イギリスは半蔵門外に恒久的な公使館を建築、とある。泉岳寺門前から移転したことがわかる。
高輪接遇所については、下記の資料で確認できる。
『江戸の外国公使館 開国150周年記念資料集』p.70-77に詳しい。
p.70に、高輪接遇所は、泉岳寺前にあった実質的なイギリス公使館で、攘夷派の焼き討ちの危険を避けるため「高輪接遇所」と称した、とある。
同ページに「152 東京名所図会 高輪英吉利館」(歌川広重(2代)画 1868年(明治1)本館蔵」の絵図がある。[郷土歴史館デジタルミュージアム]で同絵図は閲覧可能。
p.71に、「154 高輪接遇所絵図 1865年(慶応1)7月」があり。イギリス公使側が洋館建築を希望し幕府に提出したが、幕府は和風建築で造営すると回答、とある。
p.72に、「157 高輪泉岳寺境内上ヶ地接遇所惣絵図 東京大学史料編纂所蔵」(施設図)がある。
p.73に、「159 接遇所絵図 1866年(慶応2)12月 東京大学史料編纂所蔵」(構成図)がある。敷地は泉岳寺中門の向かいの場所で面積は2,659坪、平屋建て2棟の公使館(接遇所)が建築され、1棟は公使パークスのため、もう1棟は公使館員用にあてられた。その他に公使館付属の厠、幕府役人の詰め所が設けられた。さらにイギリスはのちに、公使館の南の如来寺の敷地を騎兵の屯所として幕府より貸与され、このほか泉岳寺境内に別手組屯所、海岸に上陸場を確保するなど各国公使館中最大の規模をもっていた、とある。
また同ページに、「161 江戸の英国公使館 ウィード撮影 個人蔵」(古写真)があり、高輪接遇所を写した現存のところ唯一の資料、とある。
p.74に、「164 東京名勝尽 高輪の応接所 歌川広重(3代)画 明治初年 東京都立中央図書館 東京誌料文庫蔵」の版画がある。
p.75に、「167 芝高輪辺絵図(尾張屋板、部分)1857年(安政4)本館蔵」の古地図あり。泉岳寺と高輪接遇所の位置が確認できる。
『図説 港区の歴史 12巻』p.159に、「1866年(慶応2)、幕府は泉岳寺の門前にイギリス公使館を建設します。高輪接遇所とも呼ばれたこの施設の敷地は4,993坪、公使館の建物のほか、イギリス兵や幕府護衛兵の屯所なども備えていました」と記載がある。また同ページに、「図5-19-4 高輪接遇所 『イギリス横浜駐屯軍幕末写真帳』 1866年~1867年 横浜開港資料館所蔵」の古写真がある。
[デジタル版 港区のあゆみ]の「図説 港区の歴史」「御殿山と高輪接遇所」(テキスト)でも同様の内容を閲覧できる。
高輪接遇所の場所については、明確に「高輪接遇所」と表記がある資料はないが、下記でおおよその場所が確認できる。
『英国外交官の見た幕末維新』p.23に、「我々が使用することにした建物は2棟の細長い、今にも倒れそうな平屋建てで、1棟を公使用に、1棟は我々のために当てることにした。その敷地は四十七士の墓がある有名な泉岳寺の下にあった」と記載がある。
p.24に、「門良院(もんりょういん)という寺の一部を借りることになった。それは公使館から数百ヤード離れた丘の上に建っている小さな気持ちのよい寺で、眼下に江戸湾の美しい景色が広がっていた」と記載がある。
『港区近代沿革図集 高輪・白金・港南・台場』p.13、1986年(昭和61)の地図で「泉岳寺」右横に「泉岳寺前児童遊園」がある。同p.29、1876年(明治9)の地図では同場所に「海軍炮兵隊屯所」とある。
また『江戸の外国公使館 開国150周年記念資料集』p.73、「159 接遇所絵図 1866年(慶応2)12月 東京大学史料編纂所蔵」(構成図)にある「泉岳寺」「門良院」「接遇所」の配置と、『港区近代沿革図集 高輪・白金・港南・台場』p.29にある「泉岳寺」「門良院」の配置から、「海軍炮兵隊屯所」及び同p.13「泉岳寺前児童遊園」の場所に「高輪接遇所」があったことがおおよそ確認できる。
その他、高輪接遇所に関する記載がある資料は下記の通り。
『港区歴史観光ガイドブック』p.32-33,38
[VISIT MINATO CITY](港区観光協会公式ウエブサイト)
エリアガイドに高輪接遇所跡(泉岳寺前児童遊園)について記載がある。
(2024年2月更新)
参考資料:港区史第3巻港区総務部総務課/編集港区, (p.361-365)
参考資料:江戸の外国公使館港区立港郷土資料館/編集港区, (p.70-77)
参考資料:港区史[第12巻]港区総務部総務課/編集港区, (p.156-159)
参考資料:英国外交官の見た幕末維新A.B.ミットフォード/著新人物往来社, (p.22-24)
参考資料:港区近代沿革図集高輪・白金・港南・台場港区立港郷土資料館/編港区, (p.11,13,29)
参考資料:港区歴史観光ガイドブック港区産業・地域振興支援部観光政策担当/編港区, (p.32-33,38)
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