【松丘保養園】
・沢知恵『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史 園歌はうたう』(岩波書店、2024年)
31p「消された三節と「民族浄化 青森の松丘保養園」
「最初の楽譜は、一九三二年十一月発行の機関紙『甲田の裾』にありました。《北部保養院院歌》です。曲は《松丘保養園園歌》と同じですが、こちらは三節まであり、「景勝絶佳」のところは、《松丘保養園園歌》とはちがう自然な動きのメロディーです」
・『甲田の裾 1932年10月号』(北部保養院内甲田の裾社、1932年)
牧泉「院歌を持つ喜び」
→「私は今度献歌式が挙げられほんとうに私達の有となった北部保養院歌についてその内容を説明しようとも思わないし又強いて北部保養院の諸彦よ!!院歌を愛せよ!!院歌を意義あらしめよ!!などと大それた忠告はしないことにする」
・『甲田の裾 1934年12月号』(北部保養院内甲田の裾社、1932年)
「院歌慰藉會歌作者ニ對スル感謝状贈呈式」
→「院歌は昭和七年九月内務省衛生局高野六郎氏の苦心力作にして(以下略)」
【東北新生園】
・沢知恵『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史 園歌はうたう』(岩波書店、2022年)
33p「二人の郷土詩人によるリレー 宮城の東北新生園」
→「一九三八年に開設され、太平洋戦争前夜の四一年に、園歌は発表されました。作詞は、のちに詩人として初めて文化勲章を受賞した宮城県出身の土井晩翠(一八七一ー一九五二)です。《荒城の月》の作詞者としても有名です。作曲は東京音楽学校です」
34p「土井晩翠が亡くなった一九五三年、《東北新生園歌》は、曲はそのままに歌詞のみ改定されました。作詞者は、東北新生園の隣町である築館町(現栗原市)出身の詩人、白鳥省吾(一八九〇ー一九七三)です」
・『忘れられた地の群像 東北新生園入園者自治会四十年史』(東北新生園入園者自治会、1987年)
183p「土井晩翠と白鳥省吾の愛情によってつづられた新生園々歌」
→「新生園の園歌の作詞は、日本の有名詩人土井晩翠先生と白鳥省吾先生の御二人であり(中略)なぜこの有名な大詩人土井晩翠先生が新生園とゆかりを持ったかと思考するに、初代園長鈴木立春先生が仙台出身である関係ではあるまいか、と言うことになる。(中略)次に白鳥省吾先生であるが、先生は新生園の隣町である築館町の出身である。(中略)以上のように新生園歌は戦前は土井晩翠、戦後は白鳥省吾の各詩人によって作詩され、東京音楽学校によって作曲された」
・『といま新聞』(楓会文化部、1953年3月27日)
「白鳥省吾氏来園 生命を愛し真実をもって生きよと講演」
→「郷土が生んだ白鳥省吾氏は三月十一日突然来園され、その講演会は、午後三時より宮城会館に於て行われた。氏は新生園に訪れたのはこれで二度目であるが、此の度の来園は特に新生園々歌作成の為とみられる」
【栗生楽泉園】
・栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』(栗生楽泉園患者自治会、1982年)
139p「夏海八郎と音楽部
→「昭和8年(一九三三)の当園『年報』には、はやくも園歌が掲載されている。作詞者は不明だが、おそらく当時の職員の手によるものと考えられる。(中略)この歌詞は、古賀政男作曲の「歓喜の丘」の替え歌として歌われ(以下略)」
・沢知恵『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史 園歌はうたう』(岩波書店、2022年)
35p「旧園歌は古賀政男の作曲? 群馬の栗生楽泉園」
→「《栗生楽泉園々歌》は、一九四九年に発表されました。作詞は地元草津の薬局に生まれ、薬剤師としてつとめながら入所者の文学活動にもかかわった河合正九二(生没年不詳)です。(中略)戦前にうたわれた旧園歌は、その「自由地区」で生まれたと証言した人がいます。(中略)「「自由地区」に賢い女性が何人かいて、その人たちが歌詞をつくったんですよ」」
・『高原 1949年12月号』(楽泉園文化部、1949年)
「後記」
→「本園の園歌は人々に馴染難いものであった、そして何時の間にか園歌は忘れられ、園歌のあることさえ知っている人々が少なくなり、時代と共に新園歌が必要になって来て、文化部に於いて歌詞の募集を行った」
【多磨全生園】
・沢知恵『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史 園歌はうたう」(岩波書店、2022年)
38p「作詞、作曲者の表記がないのは? 東京の多磨全生園」
→「一九二三年三月発行の『山桜』に、「全生病院 院歌草稿」があります。歌詞のみで、作者は「逸名子」となっています。その二か月後に発行された『山桜』には、まったく別の「全生病院の院歌」が掲載されました。作者は「治田看護人」です。(中略)一年以上のときを経て、先に発表された「院歌草稿」のほうに曲がつけられ、正式な院歌として発表されました」
・林芳信『回顧五十年』(林芳信先生遺稿記念出版会、1979年)
95p「園歌の作者及び作曲者について」
→「全生園園歌(全生病院院歌)は桜井方策氏原作、光田院長補訂、橋本けし子女史作曲、大正十三年七月院歌決定。というところである」
【駿河療養所】
・沢知恵『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史 園歌はうたう』(岩波書店、2022年)
40p「大きく変わった楽譜 静岡の駿河療養所」
→「一九四九年六月の開所五周年記念式では、駿河楽劇団による祝賀演奏が行われ、所歌が発表されたとの記録があります。(略)歌詞は療養所内で募集し、審査の結果、入所者自治会長もつとめた江崎秋光(のちに田村史朗に改名)(一九一八ー五九)の作品が当選しました」
41p「作曲は、静岡の音楽文化における中心人物だった戸崎舜裕(一九〇九ー五六)です。(略)最新の楽譜は、入所者自治会が二〇一六年に発行した『開所七十周年記念誌』にあります。最初の楽譜と並べてみると、ずいぶんちがいが多いのに驚きました」
・『国立駿河療養所 開所50周年記念誌』
16p 「2.年譜」
→「昭和24年 6月3日 国立駿河療養所所歌決定(江崎秋光作詞、戸崎舜裕作曲)」
【長島愛生園】
・沢知恵『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史 園歌はうたう』(岩波書店、2022年)
43p「園歌より先にあった《開拓の歌》 岡山の長島愛生園」
→「長島愛生園には園歌より先につくられたうたがあります。《開拓の歌》です。(中略)長旅の末、船で長島に上陸したその日にうたった《開拓の歌》は、光田の弟子である医師の林文雄(一九〇〇ー四七)がウェールズ民謡のメロディーに作詞したものです」
45p「上陸して約半年後の一九三一年十一月、「開拓患者」の山田甚三(一九〇七ー四〇)が作詞し、地元の作曲家で救世軍の軍楽隊を指導した光岡米造(一八八八ー一九六八)が作曲した《愛生園々歌》が発表されました」
【邑久光明園】
・沢知恵『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史 園歌はうたう』(岩波書店、2022年)
47p「風水害をのりこえて残された幻の院歌 岡山の邑久光明園」
→「《光明園園歌》は、一九四〇年に発表されました。作詞は入所者の田中由蔵(生没年不詳)で、作曲は《椰子の実》で有名な作曲家の大中寅二(一八九六―一九八二)です。(中略)歌詞の公募は二度にわたって行われました。一度目は移設後まもない一九三八年です。懸賞金は「一等 十円一名」と提示され、応募資格は「本園職員患者及一般より」とあります。つまり、だれでもよいということです。七十一編の応募があり、一等に選ばれたのは、長島愛生園の入所者である石本完(一九〇六―四四)の作品でした。しかし、邑久光明園の入所者総代である阿部礼治(一八八三―一九六五)が、「他療養所の患者が一等当選」では「面白からず」と発言し、白紙に戻されました。一年のときを経て、今度は邑久光明園関係者のみの応募となり、四十三編の中から田中の歌詞が選ばれたのです」
・『楓 1938年9月号』、『楓 1938年11月号』(いずれも 光明園慰安会、1938年)
→「懸賞当選歌」と題して、園歌の歌詞募集の中から優秀作品をそれぞれ掲載している。9月号には一等~三等、11月号には佳作。
・『楓 1940年8月号』(光明園慰安会、1940年)
→「園歌々詞入選作品」と題して、2度目の園歌の歌詞募集の中の優秀作品を掲載している。このときの一等が田中由蔵。
・『楓 2021年8月号』、『楓 2021年10月号』(いずれも 国立療養所邑久光明園、2021年)
沢知恵「光明園の園歌 前編」「光明園の園歌 後編」
→『うたに刻まれた~』よりも詳細に、邑久光明園の園歌について書かれている。
・『風と海の中』(邑久光明園入園者自治会、1989年)
148p「光明園園歌」
→阿部礼治の「面白からず」の文章が全文載っている。
【大島青松園】
・沢知恵『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史 園歌はうたう』(岩波書店、2022年)
50p「なかったことにされた園歌 香川の大島青松園」
→「一九〇九年に開設されて以来、歴史的に二つの園歌があるといわれてきました。三四年発表の《大島療養所歌》と六〇年発表の《青松園々歌》です。(中略)二つの園歌の間にもうひとつ園歌があったというのです。(中略)そして、四二年七月号に一度掲載された《大島青松園園歌》の楽譜を見つけたのです」
・『青松 2021年4月号』(国立療養所大島青松園協和会、2021年)
沢知恵『旅芸人日記 「大島青松園の園歌」編』
→『うたに刻まれた~』よりも詳細に、大島青松園の園歌について書かれている。
【菊池恵楓園】
・沢知恵『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史 園歌はうたう』(岩波書店、2022年)
54p「隔てのない行為 熊本の菊池恵楓園」
→「一九〇九年に開設された九州療養所(現菊池恵楓園)にも、大島青松園と同じように三つの園歌があります。三三年発表の《九州療養所院歌》、四九年に創立四十周年を記念して発表された《菊池恵楓園々歌》、そして五九年に創立五十周年を記念して発表された《菊池恵楓園の歌》です。最初の園歌を作詞したのは、前出の内田守人です。(略)戦後につくられた二つめと三つめの園歌は、どちらも郷土詩人の山口白楊(一八九八―一九八〇)が作詞したものです。(略)その三つめの園歌を作曲したのは、一九四七年から七四年まで事務職員としてつとめた塚本章(生年不詳―一九九五)です」
・『檜の影 1934年1月号』(檜の影会、1934年)
内田守人作詞、清田竹男作曲「九州療養所院歌」
・『壁をこえて 自治会八十年の軌跡』(国立療養所菊池恵楓園入所者自治会、2006年)
157p 「年表」
→「1933年4月 九州療養所院歌制定(内田守人作曲)」
・『自治会五十年史』(国立療養所菊池恵楓園患者自治会、1976年)
223p 「園内音楽小史」
→「園創立40周年記念園歌制定(S24、郷土詩人山口白楊作詞、現尚絅(しょうけい)短大教授有馬俊一作曲) (略) 園創立50周年記念園歌制定(S34郷土誌”呼ぶ”主宰、山口白楊作詞、本園元職員塚本章作曲)」
【星塚敬愛園】
・沢知恵『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史 園歌はうたう』(岩波書店、2022年)
57p「山田耕筰とハンセン病療養所 鹿児島の星塚敬愛園」
→「園歌が発表されたのは、開園して二年後の一九三七年です。作詞は入所者の久木田兼光(一九〇七ー八二)で、作曲は山田耕筰です」
・『星塚敬愛園年報 昭和12年年報 開園第3年』(国立療養所星塚敬愛園、1938年)
「敬愛園歌」
→「これは星塚高原に憩えるものの明け暮れの歌である。御歌「つれづれの友」に日毎こたえまつる歌であって彼等は之れよりのぞみとよろこびとを得る。歌は入園者久木田兼光の生みなせるもの。昭和十二年の春和田秀豊翁の御斡旋により山田耕筰先生が外遊を前にして作曲をなされたのであって一同の心から感謝する處である」
【奄美和光園】
・沢知恵『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史 園歌はうたう』(岩波書店、2022年)
59p「同志への感謝をこめて 鹿児島の奄美和光園」
→「《和光園歌》は復帰の年につくられ、翌五四年一月に創刊された機関紙『和光』に歌詞が掲載されました。 ~中略~ 作詞は泉芳朗(一九〇五ー五九)、作曲は三界稔(一九一〇ー六一)です」
「一九九一年八月発行の機関紙『和光』に、元職員で放射線技師の中村民郎(生年不詳ー一九九四)が寄せた「園歌随想 和光園歌制定に携わって」という文章があります。それによると、五三年の創立十周年記念式で、幹部職員や入所者の間から、園歌を求める声があがったそうです。歌詞を募集したところ、園内外から十編が集まりました」
・中村民郎「園歌随想ー和光園歌制定に携わってー」(『和光』第6号、1991年8月)
「あれは多分昭和二十八年十一月の或る日、突然、泉先生から呼出の電話で「頼まれた園歌が出来たから来い」とのことで、(中略)「公募作品を念入りに拝見したが、園歌して【ママ】は何れも一長一短で決めきれなかったので、ボクが作詞し、ついでに三界稔さんに曲をつけてもらった」」【】は引用者註
【沖縄愛楽園】
・沢知恵『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史 園歌はうたう』(岩波書店、2022年)
61p「本土引揚者の複雑な思い 沖縄の沖縄愛楽園
→「沖縄愛楽園には歴史の節目ごとに作られた三つの園歌があります。開園した一九三八年に発表された《愛楽園々歌》、琉球政府立になった五二年に発表された《愛楽園歌》、そして復帰した翌七三年に発表された《愛楽園の歌》です」
『愛楽園々歌』について
・沢知恵『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史 園歌はうたう』(岩波書店、2022年)
62p「《愛楽園々歌》を作詞した青木恵哉(一八九三ー一九六九)は、徳島県出身のキリスト教伝道者でハンセン病患者です。(中略)開設直後に青木が園歌を作詞した必然性はじゅうぶんです」
『愛楽園歌』について
・沢知恵『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史 園歌はうたう』(岩波書店、2022年)
62p「高校の音楽教師でジャズバンドのリーダーだった兼村寛俊(生没年不詳)が作曲した二つめの園歌も三拍子系です。(中略)二つめの園歌《愛楽園歌》を作曲した国本稔(一九一六ー八六)も、やはり熱心なキリスト教徒でした」
『愛楽園の歌』については記述なし
・『うむいちなじ 改正ハンセン病問題基本法までの三十年』(沖縄愛楽園自治会・国立療養所沖縄愛楽園、2020年)
370p「愛楽園の歌」
→「愛楽園には園歌が3曲ある。最初の園歌は開園の1938(昭13)年の年報に載っている青木恵哉作詞の歌である。2つめは戦後まもなく作られた歌であり、3つめの歌は「復帰」翌年、開園35周年式典に合わせて作られた。この歌詞には回復し退所していく状況が描かれている(中略)これらの歌は看護学校の校歌も含め、どれも入所者の作詞である」
※同ページには『愛楽園々歌』『愛楽園歌』『愛楽園の歌』それぞれの楽譜が掲載されている。
【宮古南静園】
・『開園50周年記念誌』(国立療養所宮古南静園、1981年)
→巻頭ページに「南静園の歌」(作詞作曲 馬場省二)と「南静園々歌」(作詞作曲 宮良長保」の2つが掲載されている。
・『宮古療養所年報 昭和十二年』(宮古療養所、1938年)
→8p「宮古療養所所歌」
・沢知恵『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史 園歌はうたう』(岩波書店、2022年)
64p「あまりにも違う楽譜 沖縄の宮古南静園」
→「園歌の作詞、作曲者は「宮良長保」となっていますが、沖縄民謡の《えんどうの花》《鳩間節》などで有名な八重山出身の作曲家、宮良長包(一八八三ー一九三九)のことではないかと思われます。(中略)しかし、他の入所者にたずねても、口をそろえて園歌の作者は「園長先生」だといいます。(中略)「園長先生」とは、医師の家坂幸三郎(一八七八ー一九五二)のことです。(中略)記録に残らずとも、入所者たちの記憶の中で、「園長先生」の存在は大きなものであったことがわかります。楽譜は二つあります。『昭和一二年年報』にある《宮古療養所所歌》と、八二年に発行された『開園五十年記念誌』にある《南静園々歌》です。歌詞は同じで、曲も基本的には同じはずです。しかし、別の曲ではないかと思うほどメロディーが違います。決定的なのは、《宮古療養所所歌》はフラット一つのへ長調で、《南静園々歌》はフラット三つのハ短調だということです」
・大山伸子『宮良長包の音楽教育活動に関する研究(3)ー最新の発掘作品ーを中心に』(沖縄キリスト教大学紀要35号、2007年)
「4.調査中の発掘作品に関して」
→「「南静園園歌」は沖縄県宮古島島尻に在るハンセン病施設「宮古南静園」の園歌である。この歌を記憶して歌唱できる小禄富さん(90歳)を尋ね、歌唱の録音と、聞き取り調査を行った。(2006.7.31)。小禄さんによると、昭和8年頃から歌っているが、今でも時々友人や園内の仲間と楽しんで歌っているということであった。現在、宮良長包の作品なのかどうかの根拠を調査中である」
(https://cir.nii.ac.jp/crid/1390010292687282944 2024年10月30日最終閲覧)
・馬場省二『患者が待っている 医の本質を見つめて』(木下秀男、1992年)
91p「復帰した宮古南静園で」
→「さもあればあれ、今やライ園の夜は明けました。青少年を始め多くの療養者は、すでに治癒退園していった百三十余名の後を追うべく明日の世界を告げて鳴り響く鐘の音を聞きながら生き生きと園内生活を送っています。そういう時代が到来しているのです。そこで私も自ら作詩作曲をして南静園の歌を作り、入園者たちに披露したが、これは今でも何かの折に歌ってくれている」
参考
『楓 1955年10月号』に、森幹郎『ライ療養所の園歌』の記事。大島青松園以外の園歌が載っているほか、作詞者・作曲者・制定年月日などが記載されている(全てではない)
参考資料:沢知恵 著. うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史 : 園歌はうたう. 岩波書店, 2022. (岩波ブックレット ; No.1070)
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I032451928, 978-4-00-271070-9
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