Quantcast
Channel: レファレンス協同データベース
Viewing all articles
Browse latest Browse all 148274

医学史研究者の故中野操博士が雑誌「医譚」(33号 p.21 昭和41年)の中で、江戸時代の医者 岩永磐玄の墓が「斎藤町 浄光寺」にあると記しているが、地図に「斎藤町」が見当たらない。町名が変更になったのか。もしそうなら現在は何という町名になっているのか。

$
0
0
地名辞典等を調べたところ、「斎藤町」は江戸期~明治5年の町名で、現在は「大阪市西区江戸堀1~2丁目」付近に相当する。 ◆参考資料◆ ・『大阪の町名』(大阪町名研究会/編 清文堂出版 1977.9) p241~242 江戸堀上通一~二丁目(えどぼりかみどおり) 「この区域には、江戸時代に斎藤町・白子裏町・犬斎町・井路屋町があったが、のちに犬斎町と井路屋町を合わせて布屋町とした。」 「明治五年三月十七日、斎藤町を江戸堀上通一丁目、白子裏町と布屋町を江戸堀上通二丁目と改称したが、」 ・『角川日本地名大辞典27 大阪府』(「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1983.10)  p514~515 さいとうまち 斎藤町 <西区> 〔近世〕江戸期~明治5年の町名。江戸期は大阪三郷北組のうち。「宝暦町鑑」によれば「西よこぼり斎藤ばし(尼崎橋)西詰からにしへ」の町とある。・・・明治2年に西大組に所属。同5年江戸堀上通1~2丁目となる。」 p200 えどぼりかみどおり 江戸堀上通 <西区> 〔近代〕「もとは西大組斎藤町・白子裏町・布屋町。2丁目には浄土真宗本派浄光寺がある。」 「昭和36年一部が江戸堀北通1~2丁目となる。同52年江戸堀1~3丁目・土佐堀1~3丁目となる。」 ・『西区史 第3巻』(西区史刊行委員会/[編] 清文堂出版 1979) p263 江戸堀通一丁目 「昔は斎藤町と称せられた地で、今の尼ケ崎橋も斎藤橋が旧名である。」 p263-264 江戸堀通二丁目 「昔の白子裏町と布屋町とを合併した町である。此処には「お化銀杏」で名高い浄光寺がある。船岡山と号し真宗西本願寺末で、浄光寺というよりも「いてふ寺」と呼ぶ方がよく通ずる。」 「浄光寺」の場所については次のとおり。 ・『大阪府宗教法人名簿』昭和34年2月現在 (大阪府生活文化部私学課 1959) p11 [西区] 包括団体名:浄土真宗本願寺派 寺院名:浄光寺 所在地:江戸堀上通二の五六 代表役員名:(代)鷲尾 清己 ・『明治前期・昭和前期大阪都市地図』(清水靖夫/編 柏書房 1995.6) p102-103 大阪詳細図6(1931) 江戸堀上通二丁目51の付近に「浄光寺」の名が見える。 ・西区の住宅地図(昭和39年6月)を見ると、昭和39年4月1日現在の戸数などが書かれた「西区区分図」には、江戸堀上通二丁目に「浄光寺」の名が見えるが、詳細図では、「空地」となっており、現在「浄光寺」は、そこにはないと思われる。 以上の情報を元に、現在の地図と照らし合わせると、浄光寺の所在地は、「大阪市西区江戸堀1丁目18」のブロックになる。上記『大阪府宗教法人名簿』の住所から考えると、現在、三井住友銀行会館がある付近にあったと思われる。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 148274

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>