1. 広岡久右衛門について
「広岡久右衛門」とは、通称「加島屋久右衛門(加久)」のことで、大阪の豪商・加島屋の当主が、代々受け継いでいた名前。明治以降は、宗家・久右衛門および、九代久衛門の兄・広岡信五郎の子孫が、「大同生命保険株式会社」の社長を第四代まで務めた。加島屋代々を概観している資料と、比較的情報が多く残っている九代目以降および九代目の兄の子孫についての資料を中心に紹介する。
八代目までの江戸期の「加島屋久右衛門」については、概説的なものしか見つからなかった。
◆加島屋代々について
・『大阪町人』(宮本又次/著 弘文堂 1958)
「第八章 加島屋久右衛門と辰巳屋久左衛門」の内、加島屋についてはp201~215に書かれている。
・『大同生命100年の挑戦と創造』大同生命保険株式会社広報部/編集 大同生命保険 2003.8)
p22~23「浪速の豪商かくありき 核となった加島屋の足跡」
※江戸時代から明治以降の「大同生命」第4代社長・広岡松三郎までのおおまかな加島屋の歴史がわかる。
・『大同生命七十年史』(大同生命保険 1973)
p309~316 別編 広岡家の歴史
p525~569 年表
※大同生命内の人事が詳細に書かれている。広岡家の人が登場するのは主にp542まで。
◆広岡久右衛門(九代目):大同生命初代社長
・『大阪人物辞典』(三善貞司/編 清文堂出版 2000.11)
p1002-1003 広岡正秋 ひろおか/まさあき
「豪商「加久」こと、加島屋久右衛門の九代目当主。弘化元年(1844)七代久右衛門の三男に生まれたが、兄の八代久右衛門が早世したため若くして九代目を継いだ。・・・同四三年(1910)六月六六歳没。子息の十代久右衛門も大同生命や阪急電車の発展に貢献している。」
・『大同生命90年の歩み』(大同生命保険相互会社広報部/企画・編集 大同生命保険 1993.10)
p6 初代社長 広岡久右衛門正秋 の写真、略歴。
◆広岡信五郎・浅子
※信五郎は加島屋7代目広岡久右衛門の次男、広岡久右衛門(九代目)の兄で後見役。浅子は三井家の娘で、その妻。夫の事業を助けた。
・『大同生命90年の歩み』(大同生命保険相互会社広報部/企画・編集 大同生命保険 1993.10)
p2 広岡浅子 の写真、略歴。
・『小説 土佐堀川-女性実業家・広岡浅子の生涯』(古川智映子/著 潮出版社 1988)
広岡浅子の生涯を描いた小説。広岡久右衛門、広岡恵三らも登場。
・大阪日日新聞「なにわ人物伝-光彩を放つ-:広岡浅子(2006年1月7日)」
◆広岡恵三(広岡信五郎の養子):大同生命第2代社長
・『大阪財界人物史』(国勢協会 1925)
p658~660 株式會社加島銀行頭取 大同生命保險株式會社社長 廣岡惠三氏
・『大阪人名資料事典第2巻:大阪現代人名辞書2(文明社 大正2年刊の復刻)』(日本図書センター 2003.5)
p839 廣岡惠三(實業家)
・『大同生命七十年史』(大同生命保険 1973)
p107~108 広岡恵三 略歴。
◆広岡久右衛門(十代目):大同生命第3代社長
・『大同生命七十年史』(大同生命保険 1973)
p110~111 広岡久右衛門 略歴。
・『人事興信録』第29版 (興信データ 1977)
pひ98 広岡久右衛門
・『朝日新聞』1978年11月27日朝刊(23)訃報
「広岡 久右衛門氏(ひろおか・きゅうえもん=元大同生命社長)
二十六日午前二時十五分、老衰のため大阪市北区の桜橋渡辺病院で死去、八十八歳。・・・喪主は長男正荘(まさたか)氏。・・・」
◆広岡松三郎:大同生命第4代社長
・『大同生命七十年史』(大同生命保険 1973)
p182~183 広岡前社長略歴として広岡松三郎の略歴。
明治期の広岡家の事業的なことについては、『大同生命七十年史』が詳細である。広岡松三郎氏が社長を退任してからは、広岡家は大同生命の第一線には出なくなった。『人事興信録』では、第29版(1977)を最後に「広岡久右衛門」は掲載されていない。十代目の長男・正荘氏は、この時点では「東洋交易勤務」となっている。
2. 鴻池市兵衛について
「鴻池市兵衛」も、鴻池家の別家で代々受け継がれた名前のようである。ただ、鴻池宗家の「鴻池善右衛門家」の家系図には見当たらず、かなり早い時期の別家らしい。分家ではなく別家のため、一族以外ののれん分けの可能性もあり、ほとんど情報がでてこなかった。分限者(資産家)の番付などで、その名が散見できるが、どれが何代目かは不明であり、経歴などは不明。大阪府立中之島図書館所蔵の『大坂袖鑑』や他の資料の記述から考えると、安永年間(1772~1780)ころには、すでに長州藩の蔵元(名代になっている場合もあり)を務めていたらしい。
以下、調査資料中「鴻池市兵衛」が出てきたものを列記しておく。
・『新修大阪市史 第4巻』(新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1990)
p494 天保14年の御用金で、7月23日に「大坂の豪商三九人中、鴻池市兵衛ら一六人に二四万五〇〇〇両が指定された。」とあり。
・『西区史 第1巻』(大阪市西区役所/編纂 大阪市西区役所 1943)
p151~152 万延元年正月の御用金「千二百貫 鴻池屋 市兵衛」とあります。鴻池善右衛門、加嶋屋久右衛門を筆頭とする応募者の中で、8番目に多額の御用金を用立てている。
p158~160 慶応3年3月には明治新政府へ天皇大阪行幸のためという名目の上納金を納めている。「二千両宛 井上市兵衛、樋口重郎兵衛」
・『大阪の研究 第5巻風俗史の研究・鴻池家の研究』(宮本又次/編 清文堂出版 1970)
巻末の附録一として、大阪大学経済史研究室が作成した「鴻池家略年表」がある。
p737 延宝五(一六七七)のところに「別家、鴻池市兵衛の初代病死○鴻池市兵衛の資産、銀二四二貫余(本家の約二五%に相当)。」とある。しかし、年表上では、鴻池市兵衛家がどの時点で別家として独立したのかは不明。
p747 慶応三(一八六七)のところで、「鴻池市兵衛、商社世話役を命ぜられ、一代限り苗字(井上氏)を許される。」とある。ここの「商社御用」とは、慶応3年6月に幕府役人・小栗上野介が設立したとされる日本最初の株式会社「兵庫商社」と思われる。宗家の鴻池善右衛門は、肝煎筆頭になっている。
・『鴻池家年表』(鴻池統男/文責 鴻池 1991)
※この資料は、上記『大阪の研究第5巻』など、先行の年表の「誤りを訂正し、新たに発見された事実を付け加えたもの」とされている。
p5 延宝五(一六七七) ○初期の別家、市兵衛、書置を残して卒。
となっており、慶応3年のところからは、「鴻池市兵衛」についての記述はなくなっている。
(参考)「鴻池市兵衛」をモデルにした小説
・『長州を破った男』(南原幹雄/著 新人物往来社 1999.10) 大阪府立中央図書館所蔵
※新田開発をした鴻池善右衛門宗利のころが舞台となっているが、参考書物には、鴻池関係の資料は特に挙げられておらず、どこまでが史実でどこからが創作かは不明。
鴻池家が明治期に経営していた鴻池銀行は、後に三和銀行となり、現在の三菱東京UFJ銀行となっている。ほかにも、大阪倉庫、日本生命保険、大阪貯蓄銀行などでも鴻池善右衛門が社長を務めていた。現在は、「鴻池合資会社」を経営し、鴻池新田付近の不動産を取扱っており、鴻池家関係の史料もこの会社が保管している。上記、1991年版『鴻池家年表』によると、昭和62年(1987)に山中真吾氏が死去したことで、「善右衛門家旧来の分家すべて絶える。」となっているが、鴻池善右衛門の名前については、十三代善右衛門正通の長女・千鶴子の婿・真船統男氏が十四代鴻池善右衛門の名前を継いでいるようだ。鴻池(井上)市兵衛家についてはどうなったのか不明。
[調査資料]
・『鴻池家年表』(鴻池統男/文責 鴻池 1991)
・『鴻池の歴史を語る』(鴻池統男/[ほか述] 大阪大学経済学部 [1985])
※『大阪大学経済学』第34巻第4号(1985年刊)の抜刷
・『三和銀行の歴史』(有竹修二,戸田豊,安田良和著 三和銀行行史編纂室 1974)
・『人事興信録』第44版 (興信データ 2007.3)
pこ146 鴻池善右衛門こうのいけぜんうえもん(前名 統男「ノブオ」)
・『大阪町人』(宮本又次/著 弘文堂 1958)
p157~200「第七章 鴻池新六と善右衛門」
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