ご照会ありました件について、下記のとおり回答します。
資料①のP14に、「第2表 山形県における紅花栽培の変遷」として、元禄5年(1692)から昭和41年(1966)までの生産量が挙げられています。この表からは、寛政、文化期が最も盛んのようにうかがわれること、また、昭和40年、41年の栽培は、近年植物性紅が高く評価され、化粧、染料、薬用としての契約栽培によるものがその殆んどであることなどが記載されています。
元禄5年(1692)には、干花3,038㎏ 寛政12年(1800) 干花157,500㎏ 文化9年(1812) 干花112,500㎏
文政4年(1821) 干花56,250㎏ 昭和40年(1965) 干花219㎏ 昭和41年(1966) 干花333㎏
(1駄30貫を112.5kgとして換算)
資料②のP29~37には、江戸期の生産量に関する記載があり、その中に「干花の年度別地域別生産量」として、寛文7年(1667)から幕末期までの生産量の表が掲載されています。この表によると、寛文から寛政期までの上昇率は緩慢で、凡そ500駄から700駄の間を上下していますが、それが、寛政期を境に急速に上昇し、いわゆる「最上千駄」の好調時代を迎えるとあります。これには、上方における需要の増大、生産技術の進歩などが要因として挙げられています。
明治19年に農商務省から公表された「近世後期における全国紅花生産高(生産地別)」によると、江戸末期の全国生産高は2,000駄、そのうち最上紅花が600駄とされています。
資料③のP29~31には、山形県紅花生産組合連合会の資料として、山形県の昭和40年度から昭和56年度までの毎年の生産量の推移と昭和57年度の県内市町村別の生産量が記載されています。それによりますと、昭和40年度以降では、昭和46年度~49年度が最高(昭和48年度の生産量が3,350㎏でピーク)で、昭和57年度は556㎏と最盛期の20%弱に減少していることがわかります。
資料④のP63には、「表7-3 紅花の生産状況」として、昭和50年から平成4年までの生産量が一覧となっています。それによると、昭和40年から開始された契約栽培がその後解除されたことなどもあり、平成4年の生産量は270㎏となっています。
平成5年以降の生産量については、当館所蔵の資料中に記載が見当たりませんでした。これについては、山形県紅花生産組合連合会事務局に照会したところ、回答可能とのことでしたので直接お問い合わせくださるようご案内します。
また、紅花の生産・流通に関する資料として、上記資料①~資料④のほか、資料⑤のP11~34に、「第三 最上紅花の生産と流通」と題して、「商品作物としての収益性」、「産地の集荷形態」、「輸送経路の慣行」等についての記載がなされています。
上記内容に関連して、当館のホームぺージ(http://www.lib.pref.yamagata.jp/)を開いていただきますと、山形県関係文献目録の項目編「は」行、「紅花」の欄に、紅花関係資料として採録されていますので、あわせてご覧ください。
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