下記1~3について、案内板や住居跡の碑について調査しましたが、いずれも現時点では存在しません。
1. 麻田剛立門下 高橋至時の住居 現在:大阪市中央区法円坂1~2付近
高橋至時は、大坂城京橋口定番・井上筑後守組同心であったことから、在坂中の住居は京橋組同心屋敷にあったと推定できます。
◆『角川日本地名大辞典 DVD版』(角川学芸出版 2011.10)
上本町 うえほんまち<大阪府 大阪市中央区・天王寺区>」の〔近世~近代〕①には次のように記載があります。
「江戸期には1~4丁目があり,4丁目は町域が長いため北半・南半に分割されていた。大坂城追手口に近い内本町通りとの分岐点から1丁目となり,「宝暦町鑑」は同丁目を「谷町すじよりひがしへ三すじめ,本町はし通より南へ入ル丁,ミなミへ段々つゞく」と記す。次いで農人橋通りから2丁目,久宝寺橋通りから3丁目,安堂寺橋通りから4丁目となり,その南は札之辻町に続いた。町域は武家屋敷地を貫通しており,東側には京橋口定番組屋敷・清水谷屋敷(大坂城代下屋敷),西側には城代家中五軒屋敷・京橋口定番組屋敷・鈴木町代官所・旗本永井氏蔵屋敷・鉄砲同心五十軒屋敷があった。」
◆『大阪古地図集成 第十二図 文政新改摂州大阪全図 文政八年(1825)』と現在の地図を見比べると、農人橋通り(現在の中央大通)以南、久宝寺橋通り以北の上町筋の東側一円と西側の上町筋沿いの一部に京橋組同心屋敷があります。
東側は、現在の大阪市中央区法円坂1丁目、難波宮跡や法円坂住宅がある一帯。西側は、大阪市中央区法円坂2丁目の上町筋、中央大通沿いの部分です。農人橋、久宝寺橋ともに現在も東横堀川に架かっている橋です。組屋敷内部の屋敷の詳細については不明です。
※参照した大坂町絵図は、高橋至時の没後の年代の地図ですが、与力屋敷と同心屋敷がはっきりと区別されていて最もわかりやすい地図でしたので、これを参照しました。1700年代後半の町絵図を見ても、武家屋敷の配置に大きな変化はないようです。
2. 間重富の住居跡 現在:大阪市西区新町二丁目付近
間重富は、四つ橋の西、長堀川にかかる富田屋橋北詰(現西区新町二丁目)で質屋「十一屋」を営んでいたので、住居はそこになります。長堀川は埋め立てられ現在は長堀通となっており、富田屋橋の名前は残っていません。
住居跡の碑はありませんが、間重富は「富田屋橋」の橋の上で天文観測をしていたため、大阪市が「間長涯天文観測の地」の石碑を建碑しています。すぐとなりには「富田屋橋跡」石碑もあります。大阪市ホームページによると、場所は地下鉄長堀鶴見緑地線「西大橋駅」の西約400m、長堀通の中央分離帯にある駐輪場連絡口のそばです。
3.麻田剛立(本町)の先事館の跡:大阪市中央区本町三丁目付近
『東区史』第4巻p98に「三十六歳の時終に決して来阪し、本町四丁目(本町三丁目、三休橋筋以西)に医業を始め」とあります。この自宅に、高橋至時や間重富が訪ねて来るようになり、のちに「先事館」となったようです。
◆『角川日本地名大辞典 DVD版』では、「本町 ほんまち<大阪府 大阪市中央区>」〔近世~近代〕の項に、「なお大坂の蘭学先駆者麻田剛立は4丁目で医院を開いていた。」と書いており、「4丁目は“せんだんの木橋すじより西へ”の町(宝暦町鑑)」となっています。5丁目は「“心斎ばしすじより狐セうじまて”」の町なので、現在の中央区本町三丁目の三休橋筋以西、心斎橋筋以東のあたりに該当するようです。
おもな参考資料
・『大阪人物辞典』三善貞司編 清文堂出版 2000
・『大阪史蹟辞典』三善貞司編 清文堂 1986
・『大阪の人と史跡-その伝承』足立克巳編集 大阪観光協会 1978
・『月に名前を残した男-江戸の天文学者麻田剛立』鹿毛敏夫[著] 角川学芸出版 2012
・『高橋景保の研究』上原久著 講談社 1977
・『江戸時代の洋学者たち』緒方富雄編 新人物往来社 1972
・『大阪古地図集成(大阪建設史夜話附図)』玉置豊次郎著 大阪都市協会 1980
・『自家用自動車案内 付録 大阪便利情報地図』大阪府自家用自動車連合協会 2012
ほか、大阪市のホームページ等インターネットの情報を参照しました。
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