東区が最初に空襲の被害にあったのは、3月13日ということはわかったが、罹災町名を列記した資料はみつからなかった。
以下、参考になる資料を紹介する。
(1)『大阪春秋 119号 付録』「日別空襲被害地図 焼失区域(期日別)」
※原図は桃山学院史料室蔵。原図は、天地約107センチ、左右約76センチ。表面にタイトルはなく、裏面に「日別空襲被害地図」「焼失区域(期日別)」とある。
凡例によれば、
第一回戦災地域 昭和廿年三月十四日、第二回戦災地域 昭和廿年六月一日、第三回戦災地域 昭和廿年六月七日、第四回戦災地域 昭和廿年六月十五日、第五回戦災地域 昭和廿年六月十六日以降
の5つに色分けされているので、地図上の町名で罹災町名を確認する事ができる。
(2)『東区史 続 第3巻』大阪市東区史刊行委員会編集 大阪市東区史刊行委員会 1981
p93-115 に、空襲の被害について記載されている。罹災した町名は特定されていないが、具体的な罹災施設が書かれている。
p102 第二次大阪大空襲
六月一日午前九時から十一時五分
「東区は、第一次大空襲によって東横堀川以西、平野町以内の地域が焼失したが、この空襲によって、玉造町付近を中心に被害を受けた。(中略)これは、この地区が焼夷弾と爆弾による集中攻撃を受けたからであり、とくに東雲町二丁目は逃げ場を失った人々が多数焼死して、惨状を呈したといわれる。日本貯蓄銀行玉造支店、帝国銀行玉造支店もこのとき全焼した。」
p104 第三次大阪大空襲 六月七日午前十一時十分から十二時四十分
「東区では、森之宮付近・上町付近・大手前之町・京橋辺に被害を生じた。」とあり、工場などの被害が具体的に書かれている。
p108 第四次大阪大空襲 六月十五日午前八時四十分ごろから十時五十分
「東区内では、この空襲によって陸軍病院大手前分院・東税務署・逓信省電気試験所や、電波兵器を製作していた東口製作所が全焼し、大阪陸軍被服支廠・中部二十三部隊・第三十部隊・大阪造兵廠などの一部が焼失した。」
p108 第五次大阪大空襲 六月二十六日午前九時十分から十二時二十分
「東区内にも二〇発の爆弾が投ぜられ、一三人の犠牲者が出た。」
p112 第六次大阪大空襲 七月二十四日午前十時三十分から約二時間 大阪市の主要施設に爆撃
「東区で被害を受けたのは、森之宮付近」とあり、具体的な罹災施設を挙げている。
p112-113 第七次大阪大空襲 八月十四日十二時三十分ころから
「主目標になったのは、東区・城東区にある軍関係の官衛(中部軍管区司令部、大阪師管区司令部等)、陸軍造兵廠などの軍直轄工場及び、城東線(環状線)であった。そのため、大阪師管区司令部が全焼したのを初め、陸軍造兵廠は大損害を被り、森之宮駅・京橋駅も破壊された。」
※付図「大阪市戦災地域図(昭和二十年)」
凡例
三月十四日焼夷弾、六月一日焼爆、六月七日焼爆、六月十五日焼爆、七月十日焼夷弾、六月二十六日爆弾、七月二十四日・二十六日爆弾、八月十四日爆弾の8つに色分け。
大阪市内の区の境界を書いた地図に色をのせているので、厳密な町名はわからないが、区内のどの地域がいつ罹災したかがわかる。
(3)『続東区史 別巻』大阪市東区史刊行委員会編集 大阪市東区史刊行委員会 1979
第三章 体験と証言 一、空襲被災 p291-360
p298-321 三月十三日夜半の大空襲 p321-324 船場地区聞き書
p325-330 六月一日昼間の大空襲 p330-332 中大江地区聞き書
p332-342 六月七日の空襲 p342-345 南大江地区聞き書
p345-355 終戦前日八月十四日の空襲(厳密には東区外)
p355-361 玉造・森之宮地区聞き書
※東区のそれぞれの場所で罹災した人々の体験談。具体的な町名が出てくるので、参考になる。
p295 「三月十三日の空襲により、東横堀川から西、平野町通りから南の地域を焼野原とされた東区は、六月一日、同七日、同十五日、同二十五日の空襲によって、焼け残っていた東横堀川以東の大江地区・大手前・玉造・森之宮方面を焼払われてしまったのである。殊に、六月一日の空襲による玉造地区、同十五日の森之宮方面の惨状は、多くの体験者の証言によって知ることができるのである。」
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