・『堺市史 第7巻 別編』 清文堂出版 1977.10(昭和5年刊の復刻)
p638-639 (一五)紅谷菴
に、沿革が書かれている。
成立については、
「紅谷菴は天王山と號し、三國ヶ丘町にあり、曹洞宗興聖寺末、寺格常恆會地である。大永中堺大小路の豪商紅屋喜平草庵を結び、牡丹花肖柏池田より來つて此處に隠栖した。爾來紅屋の庵、紅庵又は紅谷庵と呼ばれるやうになつた。」
とあり、「大永中」つまり大永年間(1521~1527)頃に成立したとされている。
大永年間(1521~1527)
紅屋喜平が草庵を結び、連歌師・牡丹花肖柏が池田より来て隠棲。その後荒廃に帰し、浄土僧・是得ら諸宗の徒が来住。
元和年間(1615~1623)
市民金屋伊右衛門の私有に帰し、堂宇は荒廃。
安政元年(1854)
泉北郡信太村蔭涼寺住職・環渓密雲が来住し栄えたが、環渓が江戸・豪徳寺に転住して再び荒廃の危機。
明治元年(1868)
環渓が山城宇治・興聖寺に昇住、本堂・庫裏などを建立して再興を企て、興聖寺末として高弟・眉柏祖禅を住職とする。
明治3年(1870)
天王山紅谷庵と公称。
明治5年(1872)11月
寺格を昇し、曹洞宗最高位の格位常恆会地となる。
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