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「千住」と「千寿」の表記はどのように使い分けているのか。(足立区立中央図書館)

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【資料1】と足立区公式ホームページから、地名表記では「千住」、学校名、文芸活動や祭礼などでは瑞祥名の「千寿」が用いられていることがわかった。 回答プロセス:1 地名辞典にあたる 『角川日本地名大辞典』13東京都(「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 角川書店 1978)と『日本歴史地名大系』13東京都の地名(平凡社 2002)ともに「千住」は地名にあるが「千寿」は見あたらない。 2 足立区資料にあたる 『足立区町名のうつりかわり』(足立区役所区民部管理課編 東京都足立区役所 1982)地名に「千住」はあるが「千寿」は見あたらない。 『新修足立区史』上巻(東京都足立区役所編 東京都足立区役所 1967)「第2節 各町村の沿革」のp.683~691「1 千住町」に「千手」「千寿」「千住」の由来について記載あり。「(前略)どれが正しいのかはつまびらかではないが、弘安2巳卯年(1279)と記された古文書に「千寿」という地名がある(後略)」とあり。p.686からの27町名すべては「千住」から始まっている。使い分けについての記述はなかった。 『足立風土記稿』地区編1 千住(足立区教育委員会文化課編 足立区教育委員会 2004) p.13からの「千住の歴史と宿場地区」での地名表記は「千住」のみ。 p.169「明治初期の教育」に「千寿女子尋常高等小学校(後の千寿小学校)」あり。 p.175からの「区立小学校の変遷」では「千寿本町小学校」「千寿第三小学校」「千寿常東小学校」「千寿桜小学校」について記載あり。統合前の旧小学校名に「千寿」がついていた学校が7校ある。p.177「区立中学校の変遷」には「千寿青葉中学校」があり。いずれも「千寿」を使用している理由は見当たらなかった。 【資料1】p.7「地名の由来」から地名表記上は基本的に「千住」が利用されていること、「千寿」は学校名などの他に、文芸活動や祭礼などに用いられている。という記述があり。 3 足立区公式ホームページで〈千住/千寿〉を検索 「千住と千寿 住と寿とどうちがう」がヒット。町名、地名としては「千住」、機関名、瑞祥名としては「千寿」を使う場合があることがわかる。(https://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/sennjyutosennjyu.html 最終アクセス日2023年7月11日) 4 足立区の教育、民俗、歴史資料にあたる。 『足立区教育百年のあゆみ』(東京都足立区教育委員会編 東京都足立区教育委員会 1980)p.122~p.123に「千寿小学校」あり。「千寿」を使用している理由について記載などはなかった。 『あだちの祭囃子』(足立区郷土博物館編 足立区郷土博物館 2002)p.36「千住の囃子」の項は「千住」のみ。 『江戸の祭り囃子考』(八木幸男著 足立史談会 1993)「3 祭囃子の創作」p.17「(前略)千住の宿場の南側(現在の荒川区南千住)の旅籠は(中略)千寿口の岡場所と云われていた」とあり。 『足立区の昭和』」(いき出版 2016)「祭りと伝統行事」の項p.219~p.224の写真とキャプションは「千住」のみ。 『足立史談』復刻版6(足立史談会編 足立区史料刊行会 2018)512号(平成22年10月)p.1「千住の祭り」では「千住」のみ。 他に見た資料 『足立の庚申塔を歩く』(石川博司著 庚申資料刊行会 2003) 『足立の庚申塔を歩く』続(石川博司著 庚申資料刊行会 2004) 『千住宿と足立』(勝山準四郎著 足立史談会 1981) 参考資料:【資料1】『ブックレット足立風土記』1千住地区(足立区郷土博物館編 足立区教育委員会 2002),

足立区新生活運動推進委員会が発行していた「新しいくらし」とその前身の「主婦のメモ」という機関誌を見られないか。(足立区立中央図書館)

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「新しいくらし」「主婦のメモ」が掲載されている資料や現物保管の情報などは無く、機関誌を見ることができるものはなかった。 回答プロセス:1 自館図書館システムで検索 〈足立区新生活運動推進委員会〉で検索するが、該当する情報なし。 2 インターネット「Google」にて検索 〈足立区新生活運動/新しいくらし〉で検索するが該当する情報なし。 〈足立区新生活運動/主婦のメモ〉で検索。 「区政のお知らせ」第112号のPDFがヒット。「区政のお知らせ」第112号(2)特集「民生」の文章内に「新生活実践運動につきましては、指導用のプリント「主婦のメモ」を婦人会、自治会を通じて配布すると共に(後略)」とあるが、機関誌自体はなし。 (https://www.city.adachi.tokyo.jp/_koho_data/S35-1960/PDF/19600101_0200.pdf 最終アクセス日2023年7月28日) 『足立区のおしらせ』縮刷版 昭和23年9月~昭和47年3月(足立区企画広報室編 足立区企画広報室 1972)で確認する。 p.227に「区政のおしらせ」第112号あり。発行は昭和35年1月1日。 〈足立区/新しいくらし〉〈足立区/主婦のメモ〉などで検索するが該当なし。機関誌に関する情報は見つからなかった。 3 足立区公式ホームページで<新生活運動>を検索 「区長のあだちな毎日(ブログ)」2021年4月に「足立区新生活運動」についての記述あり。「足立区新生活運動推進委員会」は「あしたの足立を作る区民協議会」に変化し平成21年3月に終了したとあるが、機関誌については触れていない。 (https://www.city.adachi.tokyo.jp/hisho/ku/kucho/20210427-mainichi.html 最終アクセス日 2023年7月28日) 4 「あしたの足立を作る区民協議会」を検索。 「新しいくらし」「主婦のメモ」に関する資料はなし。足立区公式ホームページやGoogleでも検索するが関係する情報はなかった。 5 足立区資料にあたる 『新修足立区史』下(東京都足立区役所編 東京都足立区役所1967) p.481「新生活運動」についての記述はあるが機関誌については書かれていない。 p.493「広報刊行物一覧」の表あり。広報の種類と昭和39年度、40年度、41年度の発行回数と発行部数が載っている。表を見ると「新しいくらし」は、発行回数が年4回、1回に2000部ということが分かったが、それ以外の情報はなし。 『区勢要覧』(東京都足立区役所編 東京都足立区役所) 昭和36年版から昭和49年度版までのものには「新生活運動」についての項があったが、機関誌についての記述はなかった。 6 国会図書館図書館サーチ 「新しいくらし」「主婦のメモ」を検索するが該当なし。 7 東京都立図書館 蔵書検索で「新しいくらし」「主婦のメモ」を検索するが該当なし。 事前調査事項:『足立区新生活運動の手引き』(足立区新生活運動推進委員会 1986) 『足立区新生活運動30周年記念誌』(足立区新生活運動推進委員会 1990) 『足立区新生活運動20周年記念誌』(足立区新生活運動推進委員会 1980) 『まちづくり50年そして未来へ 新生活運動から東京のあすを創る運動へ』(東京のあすを創る協会編 2007) 『東京都新生活運動十五年のあゆみ 沿革と展望』(東京都新生活運動協会 1973) 『東京都生活学校連絡協議会40周年記念誌』(東京都生活学校連絡協議会 2022) 『新生活運動と日本の戦後:敗戦から1970年代』(大門正克編 日本経済評論社 2012) 『暮らしの革命:戦後農村の生活改善事業と新生活運動』(田中宜一編 農山漁村文化協会 2011)

大正時代の銀座について記載のある資料を探している。当時の街並みや人々の暮らし、食べ物のことを知りたい。本のほかに広告や音声、映像資料もあるならば見たい。(足立区立中央図書館)

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大正時代の銀座の街並み、人々の暮らし、食べ物などについて記載のある資料として【資料1】から【資料13】を紹介した。 当館所蔵の音声・映像資料には、大正時代の銀座の資料はなかった。 回答プロセス:1 213の棚をブラウジング 【資料1】銀座1丁目から8丁目、京橋、八重洲の様子が記されている。各丁目の項の見出しページには旧町名と河岸が記載されている。 【資料2】「2 廊下のようなギンザ」p.50~p.55に大正10年前後のカフェーと食べ物についての記述あり。「4 どろんこの銀座」p.221~p.227には、大正10年春に銀座の車道大拡張のため街路樹の柳を全部抜いたこと、大正2年になっても泥濘さわぎがあったという記述あり。 【資料3】p.18~p.35の「ぎんざの推移」に「銀座1丁目から8丁目の大通り商店の変遷」あり。大正10年~昭和29年までの商店の変遷が分かる。p.180には「銀座も、明治から大正初期にかけてはすべてのムードがフランス的だった」との記述あり。 【資料4】p.16~p.17「デパートの話(銀座)」あり。p.18「モガとモボ」服装の記述あり。 【資料5】「第2章 日本橋から東海道に沿って」の「銀座」p.211、p.214、p.215、p.220、p.221に大正時代の写真あり。 【資料6】p.367「三越呉服店新刊落成記念ポスター 大正3年」あり。p.384「91 広告に見る薬の種類」あり。 【資料7】p.53「大正時代」p.63からは大正年間の年表。 2 児童書をブラウジング 【資料8】p.44~p.45「大正時代の食べ物」の項あり。 【資料9】p.8「洋食文化」にキューピーマヨネーズのポスターあり。p.18 銀座についてあり。 3 図書館システムで〈食生活/大正〉〈大正/風俗/世相〉を検索する。 【資料10】p.235~p.264が大正年間の年表。ページ下部に当時の広告写真があり。「サクラビールの看板(1912)」、「キリンビールの宣伝カー(1912)」、「森永ミルクキャラメル発売(1913)」の広告を見ることができる。 【資料11】p.150「生ビール・スタンド(大正3年)」、p.155「霊薬(大正7年)」の絵あり。場所は特定されていない。 【資料12】p.128から大正篇の年表形式の記述あり。 【資料13】前編「チラシ広告に見る大正の世相」p.16~p.17、p.34~p.35に三越呉服店、p.31に白木屋の広告あり。 4 視聴覚資料にあたる 図書館システムで資料区分を「視聴覚資料」に絞り〈大正/銀座〉を検索。 『東京遺産』(FMトウキョウ 2006)がヒットしたが、第2集、第3集ともに内容は昭和の建築だった。 他に見た資料 『東京本遊覧記』(坂崎重盛著 晶文社 2002) 『朝日新聞』(日本図書センター)大正編1~174 各紙面に当時の広告あり。 『日本人とてれふぉん』(NTT出版 1990) 『日本食生活史』(渡辺実著 吉川弘文館 2007) 参考資料:【資料1】『遠ざかる大正 私の銀座』(瀬田兼丸著 新泉社 1986), 参考資料:【資料2】『銀座の詩情』1(平野威馬雄著 白川書院 1966), 参考資料:【資料3】『銀座の詩情』2(平野威馬雄著 白川書院 1966), 参考資料:【資料4】『東京あれこれ』(竹内重雄著 国書刊行会 1987), 参考資料:【資料5】『明治・大正・昭和 東京写真大集成』(石黒敬章編 いsん庁舎 2001), 参考資料:【資料6】『史料が語る大正の東京100話』(日本風俗史学会編 つくばね舎 2002), 参考資料:【資料7】『秘蔵写真で綴る銀座120年』(『銀座15番街』編集部編 第一企画出版 1995), 参考資料:【資料8】『タテ割り日本史』1 講談社編 講談社 2020), 参考資料:【資料9】『4つの時代をタイムトラベル』2(廣済堂あかつき 2019), 参考資料:【資料10】『日本の食文化史年表』(江原詢子著 吉川弘文館 2011), 参考資料:【資料11】『ビールと日本人』(麒麟麦酒株式会社史編纂委員会編 麒麟麦酒 1983), 参考資料:【資料12】『明治・大正・昭和食生活世相史』(加藤秀俊著 柴田書店 1977), 参考資料:【資料13】『チラシに見る大正の世相・風俗』(増田太次郎著 ビジネス社 1986),

足立区にある「弘道」という地名の由来を知りたい。(足立区立中央図書館)

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【資料1】【資料2】【資料3】から「弘道」の由来は弘道小学校にちなんだこと、1996(昭和41)年1月の住居表示実施により誕生した町名ということが分かった。 回答プロセス:1 足立区資料にあたる 【資料1】p.181「弘道地区の移りかわり」に「現在弘道一丁目・二丁目といわれる町名は1996(昭和41)年1月から実施された地名である。(中略)町境はいりくんだ地であり(中略)そこで歴史のある弘道小学校の名をとって「弘道」と名づけられた。」とあり。 【資料2】p.20「青井・弘道」の項「弘道の地名由来」「(前略)1996(昭和41)年1月に住居表示が実施され、この地域の子どもたちが通ってきた弘道小学校の校名にちなんで「弘道」という町名が誕生しました」とあり、弘道小学校の校名の由来も記載があり、「『論語』衛霊公篇の「子曰人能弘道非道弘人」、(中略)水戸の弘道館を意識して命名されたといわれています。(『弘道小学校創立百年記念誌』参照)」となっている。 参照資料である『弘道』(東京都足立区立弘道小学校創立百周年記念事業協賛会 1978)を見ると、p.37「「弘道」という校名は孔子の言行録である「論語」の衛霊公篇の一節「人能弘道、非道弘人」に由来しており(中略)綾瀬の地の南端を水戸街道が通っており、水戸藩の藩校弘道館を意識して命名されたことは確実だが、命名者はわからない。」の記述あり。 2 地名辞典にあたる 【資料3】「地区編」足立区p.775「弘道 1丁目~2丁目」に「〔直前〕五反野北町の大部分、四ツ家町・伊藤谷西町・五兵衛町の各一部〔成立〕昭和41年1月1日住居表示実施〔由来〕小学校名による」とあり。 『日本歴史地名大系』13 東京都の地名(平凡社 2002)「弘道」の由来の記述は見当たらなかった。 参考資料:【資料1】『足立風土記稿』地区編 6 綾瀬(足立区郷土博物館編 足立区教育委員会 1997), 参考資料:【資料2】『ブックレット足立風土記』第6巻 綾瀬地区(足立区教育委員会 2002), 参考資料:【資料3】『角川日本地名大辞典』13 東京都(角川日本地名大辞典編纂委員会編 角川書店 1978),

プロ野球12球団の本拠地で一番収容人数の多い球場はどこか。(足立区立中央図書館)

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雑誌『週刊ベースボール』2023年5月8日号に、プロ野球本拠地球場の収容人数が掲載されています。 収容人数が一番多い本拠地球場は、阪神甲子園球場で収容人数は47,400人です。 回答プロセス:自館の図書館システムでキーワード〈本拠地〉、分類「783.7」で検索する。 雑誌『週刊ベースボール』がヒット、該当巻号から2023年5月8日号の特集が「球場物語2023」とあり、資料を確認する。 p.5,p14~p.24,p.108~p.119に最新「STDIUM DATA」が掲載されていて、「開業年」「所在地」「アクセス」「収容人数」「サイズ」「芝」についてがわかる。 参考資料:【資料1】『週刊ベースボール』2023年5月8日号(ベースボール・マガジン社),

北千住にあった「丁清」という菓子屋について詳しく書いてある本はあるか。戦後の千住の旧日光街道沿いにあった駄菓子屋についても知りたい。(足立区立中央図書館)

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「丁清」については【資料1】に詳しい記述がありました。【資料2】では千住4丁目に「芋ようかん」を業種とした「丁清木村」(昭和53年)「丁清商店」(平成3年)が確認できます。  戦後、千住の旧日光街道沿いにあった駄菓子屋についての詳しい資料は見つかりませんでした。【資料2】で、千住五丁目に昭和五十三年まで「長島屋菓子店」という店があったことが確認できましたが、駄菓子の販売をしていたかはわかりませんでした。 回答プロセス:1 「丁清」について足立区資料にあたる 『千住生活史調査報告書』(足立区郷土博物館 2012)p.83「イモ屋」の項に「(前略)勝手でふかして、玄関を開けた一間で売っていた」とあり。店名などの記載はない。 【資料1】索引から「芋屋」p.268を見る。(2)芋屋に「丁清」の項あり。千住4丁目にあり創業百余年を経ること、戦後は焼き芋のほかに芋羊羹やふかし芋も作ったこと、芋の仕入れのことなど詳細な記述あり。p.270に「丁清の竈」の図もあり。 【資料2】千住四丁目の長円寺参道近くに「木村 丁清商店 芋ようかん」あり。同じ場所の明治年代から昭和十年頃(戦争前)は「木村 氷・やき芋」、昭和五十三年は「木村 丁清商店 芋ようかん」となっている。家ごとに付番があり、丁清商店は44番になっている。 2 戦後の千住の旧日光街道沿いにあった駄菓子屋について調べる 【資料1】索引から「駄菓子屋」p.8、p.153を見る。p.8「駄菓子屋のこと」に品物についての記述、p.153「駄菓子屋など」に駄菓子屋はたくさんあり表通りではなく裏の路地に多いこと、間口二間ほどで上がり框に箱を並べてお菓子を売っていたことなどの記述があったが、店名の記載はなし。 【資料2】戦後である昭和五十三年から平成三年に、駄菓子屋と明記されている店舗はなかった。千住五丁目に昭和五十三年まで「長島屋菓子店」(223番)の名前はあり。駄菓子の販売をしていたかは不明。 戦前だと、千住河原町に明治年代から大正十年ごろ(震災前)まで「矢野 駄菓子屋 卸小売り」(44番)があり。ここは昭和十年頃(戦争前)に「矢野菓子店」となり、昭和五十三年にはなくなっていた。千住5丁目には明治年代から昭和十年(戦争前)まで「富永 池田屋菓子店」(216番)の名前があった。駄菓子の販売をしていたかは不明。 記述のなかった資料 『スイーツランドあだち』(足立区郷土博物館編 足立区郷土博物館 2015) 『足立の今昔』(東京都足立区役所編 東京都足立区役所 1979) 『足立風土記稿』地区編1 千住(足立区教育委員会文化課編 足立区郷土博物館 2004) 参考資料:【資料1】『日光街道千住宿民俗誌』(佐々木勝著 名著出版 1985), 参考資料:【資料2】『旧日光道中千住宿屋並変遷図』追補(東京都足立区教育委員会 1992),

虫などの特定の生きものに対し過剰なまでの恐怖心を抱く人がいるが、なぜ恐怖心を抱くようになったのかを知りたい。(足立区立中央図書館)

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特定の生きものに対し過剰なまでの恐怖心を抱く症状について記載のあった【資料1~3】を紹介した。 回答プロセス:1 インターネット (最終アクセス日は2023年11月17日) Googleで〈恐怖心/虫〉と検索、検索結果から以下のページを見る。 「虫嫌い」ウィキペディア(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%AB%E5%AB%8C%E3%81%84) 「昆虫に対する過剰な嫌悪感や恐怖心であり、『精神障害の診断と統計マニュアル』第5版(DSM-V)では明確な「恐怖症」と定義している」とあり。資料の所蔵を確認するが、足立区所蔵なし。 MSDマニュアルプロフェッショナル版で「恐怖症」を検索。(https://www.msdmanuals.com/ja-jp/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB/SearchResults?query=%E6%81%90%E6%80%96%E7%97%87) 「限局性恐怖症」の項に、「特定の状況または対象に対して、実際の危険やリスクとは釣り合わない強い恐怖や不安を覚える状態」とあり。診断と治療についての記述もあった。 2 「精神障害」や「恐怖症」の言葉から精神医学の資料にあたる 【資料1】p.33「(4)限局性恐怖症」に「(前略)日常的な危険に対する過度の恐怖(中略)子供のふつうの恐怖が残存するか、あるいは偶然経験した恐怖がきっかけとなって出現する(後略)」とあり。 【資料2】p.250「限局性恐怖症」に「(前略)小児期早期に発症する(中略)その多くは発症のきっかけを覚えていないが(中略)成人期まで症状がある場合、多くは寛解困難とされている(後略)」とあり。 【資料3】p.70「(不安症)限局性恐怖症」に「恐怖症の発祥の仕方は(中略)子どもの頃に感じた恐怖感が大人になっても残っているケース、もうひとつはたまたま経験した恐怖がきっかけで、それ以降対象をこわがるようになるケース(後略)」とあり。 『みるよむわかる精神医学入門』(ニール・バートン著 医学書院 2015)記載なし。 『不安障害』(ダン・J・スタイン編 日本評論社 2005)「恐怖症」は索引からp.444の「児童と青年における不安障害」に導かれるが記述なし。索引から「恐怖反応の条件づけ」を見る。p.376「連合説によらない理論」に「(前略)正常な子供時代の気がかりを覚える経験は、2つの経路によって(中略)脱馴化が起こったというものである(後略)」とあり。 『精神医学キーワード事典』(松下正明編 中山書店 2011)p.121「恐怖症」に動物恐怖の記述はあるがその理由の記述なし。 『現代精神医学事典』(加藤敏編 弘文堂 2011)specific phobiaは高所恐怖症、最近恐怖のみの記述。 『DSM-Ⅲ-R 精神障害の分類と診断の手引』(高橋三郎訳 医学書院 1988)「恐怖症」「限局性恐怖症」記述なし。 『精神医学入門』改訂版(柄澤昭秀著 中央法規出版 2006)p.135「恐怖症」はあるが「限局性恐怖症」についての記述なし。 『児童青年精神医学大事典』(ウィーナー編著 西村書店 2012)「限局性恐怖症」についての記述なし。 参考資料:【資料1】『精神医学ハンドブック』第8版(山下格著 日本評論社 2022), 参考資料:【資料2】『標準精神医学』第7版(尾崎紀夫編 医学書院 2018), 参考資料:【資料3】『最新図解やさしくわかる精神医学』(ナツメ社 2017),

明治から大正時代にかけて、戸籍がどのような様式で記載されていたかを知る資料を見たい。書籍・写真等で見られるか。(足立区立中央図書館)

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明治から大正時代にかけての様式の変遷について【資料1】~【資料3】にひな型や記載例がありましたが、写真が載る資料は見つかりませんでした。どの資料にも明治5年式戸籍については、現在では保存期間の経過により取得できないため記載例が省略されているという記述がありました。 回答プロセス:1 自館図書館システムで検索 〈戸籍/明治〉 【資料1】「第2章 様々な戸籍の様式」の「1 戸籍の起源と様式(1)戸籍の起源と種類」から明治~大正時代にかけての戸籍には、明治5年式戸籍・明治19年式戸籍・明治31年式戸籍・大正4年式戸籍があることがわかる。明治5年式戸籍について「戸籍の保存期間が経過したため廃棄処分され、現在では取得できない」という説明もあった。明治31年式戸籍のひな型と例、大正4年式戸籍のひな型と例の記載あり。 2 書架で見る 【資料2】p.43「明治19年式戸籍の見方」、p.47「明治31年式戸籍の見方」、p.52「大正4年式戸籍の見方」あり。どれも例が掲載されている。 【資料3】「第2章 古い戸籍から今の戸籍までの見方」に「明治19年式戸籍の見方」、「明治31年式戸籍の見方」、「大正4年式戸籍の見方」あり。どれも戸籍とその記載例が掲載されている。 他に確認した資料 『戸籍記載例の変遷』(高橋昌昭著 日本加除出版 2007) 参考資料:【資料1】『相続人確定のための戸籍の見方・取り方』(菱田泰典著 近代セールス社 2011), 参考資料:【資料2】『一人でできるはじめての戸籍の読み方・とり方』(千葉諭著 翔泳社 2014), 参考資料:【資料3】『わかりやすい戸籍の見方・読み方・とり方』(伊波喜一郎著 日本法令 2008),

「なんといううららかな朝だろうよ 娘たちがかたまって 立ち話をしている そこだけがばかに明るい・・・」という詩の全文と作者を知りたい。昭和20年代の教科書に載っていたらしい。(足立区立中央図書館)

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詩のタイトルは「朝」、作者は山村暮鳥。 詩の全文は【資料1】【資料2】で読むことができます。 回答プロセス:1 『日本教科書体系』にあたる 『日本教科書体系』近代編 第9巻国語(6)(講談社 1978)「凡例」から「昭和22年2月から9月までに発行された版本による」とあり。質問に該当する詩はなかった。 2 自館図書館システムで検索 〈教科書/詩〉 『教科書掲載作品13000』(阿武泉監修 日外アソシエーツ 2008)収録対象は1949年から2006年発行の高校国語教科書。内容から引ける索引なし。 『教科書でおぼえた名詩』(ネスコ編 ネスコ 1997)「うろおぼえ索引」を見るが「なんという/うららかな」は見あたらなかった。 3 Microsoft Bingで検索 〈なんといううららかな朝/詩〉で検索するが見つからなかった。 〈なんといふうららかな朝/詩〉で検索する。「山村暮鳥 雲」青空文庫(https://www.aozora.gr.jp)から「朝」という詩であることがわかる。 底本は『日本現代文学全集』54(講談社 1966)とあるが区内所蔵なし。(最終アクセス日 2024年3月10日) 4 山村暮鳥/作「朝」が教科書に掲載されていたかを確認 詩のタイトル、作者がわかったので『教科書掲載作品13000』に再度あたるが記載なし。 『教科書掲載作品』小・中学校編(日外アソシエーツ編 日外アソシエーツ 2008)収録対象は1949年~2006年発行の小・中学校国語教科書に掲載されたものとあり。「作品名索引」からp.554の『朝』に導かれる。〈中学校〉「教図’58、三省堂’59、修文館’53、大修館’58、大日本’62」とあり、いずれも一年生の国語教科書に掲載されたことが分かった。 5 自館図書館システムで著者名検索 【資料1】p.118と【資料2】p.267に、詩の全文が収録されていた。 参考資料:【資料1】『雲』詩集(山村暮鳥著 日本図書センター 2000), 参考資料:【資料2】『山村暮鳥全集』第1巻(山村暮鳥著 筑摩書房 1989),

千住から西新井大師(総持寺)へ行く道筋を「大師道」と呼んでいたらしい。詳しくわかる資料や地図を見たい。(足立区立中央図書館)

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千住から西新井大師へ行く大師道のルートは【資料1】【資料2】【資料4】に記述がありました。地図は【資料3】で確認ができます。 回答プロセス:1 足立区資料にあたる『新修足立区史』下(東京都足立区役所編 東京都足立区役所 1967)p.748「大師道」に「東西南北から大師に集中する形になっている道で代表的なものは千住からのもの」とあり。【資料1】p.67「大師道と六阿弥陀道」に、代表的な大師道が紹介されていて「千住方面からのルート」があり、千住河原町で旧日光街道から分岐し西新井大師に至るまでの詳細なルートが書かれている。他に「小台・宮城方面からのルート」「鳩ケ谷・舎人方面からのルート」「花畑・保木間からのルート」の記述あり。p.68「西新井大師へつながる古道」の地図があるが、千住地域は載っていない。【資料2】「ミニ講座足立の交通誌」p.65「庶民の道」に大師道について「西新井大師から四方に伸びていた」と記述あり。図「江戸時代の古道」では千住宿から続く道に「大師道」と記載があるが、詳しいルートはわからず。図「江戸時代の古道」の出典資料【資料3】を確認する。地図に「基図(現況図)に足立区土木部作成昭和59年度原版を使用」の記載あり。昭和7年9月30日現在の町村地図に古道や廃止された軌道、古河道などが記載され、千住から西新井大師へ至る道に「大師道」あり。【資料1】の記述の通りに西新井大師に至ることが確認できる。【資料4】p.12「江戸近郊の行楽と信仰の道」の大師道の記述に「千住からのルートは西新井病院前と本木小学校前をぬける」とあり。p.11の「区内旧道」の地図には、千住地域からのびる大師道が記されている。 参考資料:【資料1】『足立風土記稿』地区編2西新井(足立区郷土博物館編 足立区教育委員会 1999), 参考資料:【資料2】『ブックレット足立風土記稿』第1巻千住地区/足立の交通誌(足立区教育委員会 2002), 参考資料:【資料3】『足立区(南足立郡)旧町村古道図』(足立史談会 1985), 参考資料:【資料4】『写真に見る足立の交通誌』(足立区郷土博物館編 足立区郷土博物館 1995),

新選組は足立区にも逗留したことがあるらしいが、それがわかる資料はあるか。(足立区立中央図書館)

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【資料1】~【資料8】に記述がありました。 回答プロセス:1 足立区資料の棚を見る 【資料1】近藤勇(新撰組)が慶応4(1868)年旧暦3月13日に、名主金子左内宅に来て屯所を構えてから、流山で出頭捕縛されるまでの調査内容。写真多数あり。p.124「主な参考文献」に金子家文書、過去帳、近藤勇写真の記述あり。 【資料2】p.115「新選組と五兵衛新田」の項には「現在も「佐内家」と呼ばれている綾瀬4丁目15-21の金子家で勃発した」「滞在期間中五兵衛新田は不安と恐怖の坩堝にあった」「金子家は高額の出費に加え賊軍を匿ったとして官軍の厳しい取り調べを受けた」などの記述あり。 【資料3】第99号(昭和51年5月)~第108号(昭和52年2月)に「五兵衛新田 金子家・新選組史料」(吉野宏著)の連載あり。第99号(一)の「まえがき」に「昨年金子家の土蔵から近藤勇の写真や未発見の新選組関係文書が出てきた」「系統的な記述は後日とし、この連載は日付を基準に排列した」の記述あり。「資料(四)」は3月14日夜、近藤勇等が左内宅に入り込んだことを村役人から支配代官に宛て届出た控え。 第101号(昭和51年7月)連載(二)の「資料(五)」は3月14日夕に縁類の泉谷次郎左衛門から突然使いが来て十五人ほどの宿を頼まれたので承知した内容の「口上」あり。 第108号(昭和52年2月)連載(八)に「(前略)人数の増加にともない、観音寺や滝二郎宅三軒に分宿(中略)新宅も加えて四軒となり人員総数は二百三十人にも達した(後略)」の記述あり。 昭和46年8月第42号p.166「旧綾瀬村を訪ねて(7)」、昭和48年2月第60号p.240「新選組と五兵衛新田」、昭和48年5月第63号p.251「新選組と五兵衛新田(二)」の記事に、この頃までは流山の一部の地名と信じられていた五兵衛新田が、現在の綾瀬であることが知られてくるまでの研究者のやりとりがわかる手紙あり。 2 自館図書館システムで検索<新選組/五兵衛新田>【資料4】p.78からの「五兵衛新田 金子左内家と新選組」(吉野宏著)に【資料3】に記載の発見された古文書が、新選組五兵衛新田屯集の新証拠となったとあり。 【資料5】p.490からの「五兵衛新田・金子家文書」は、慶応4年(1868年)3月13日から4月1日の19日間にわたって設営された新選組五兵衛新田屯所について記録されている足立区綾瀬の金子家文書を紹介している。 『慶応四年新選組近藤勇始末』(あさくらゆう著 崙書房 2006) 区内所蔵なし <あさくらゆう>【資料6】p.192「(前略)銀座年寄の泉谷次郎左衛門の仲介によって親族である(中略)金子左内宅への転陣で落着させた(後略)」の記述あり。 <新選組/210.58>【資料7】p.64 「綾瀬の地図」、観音寺の写真、金子家の写真あり。 【資料8】p.98「4月1日に五兵衛新田を離れて流山へと移動を開始した」とあり。 参考資料:【資料1】『新撰組五兵衛新田始末』(増田光明著 崙書房出版 2006), 参考資料:【資料2】『足立風土記稿』地区編6 綾瀬(足立区立郷土博物館編 足立区教育委員会 1997), 参考資料:【資料3】『足立史談』復刻版1(足立区教育委員会社会教育課 足立区教育委員会社会教育課 1982), 参考資料:【資料4】『新選組のすべて』増補版(新人物往来社編 新人物往来社 2004), 参考資料:【資料5】『新選組史料大全』(菊地明編 KADOKAWA 2014), 参考資料:【資料6】『新選組を探る』(あさくらゆう著 潮書房光人社 2014), 参考資料:【資料7】『新選組巡礼の旅』(歴史魂編集部 アスキー・メディアワークス 2013), 参考資料:【資料8】『新選組流山顚末記』(松下英治著 新人物往来社 2009),

中央図書館が入っている足立区生涯学習センターの名称である「学びピア」の「ピア」とはどういう意味か。(足立区立中央図書館)

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「学びピア」は公募により決定した愛称だということはわかりましたが、その由来や「ピア」の意味についてわかる資料は見当たりませんでした。 回答プロセス:1 足立区の資料にあたる 『足立区例規集』令和4年5月第2巻(足立区総務部総務課編 足立区 2022)を見る。p.1992「足立区生涯学習センター条例」に「名称 足立区生涯学習センター 位置 足立区千住5-13-5」とあるが「学びピア」という言葉の記述はなかった。 2 収集しているパンフレット等にあたる 「学びピア21 足立区中央図書館 足立区生涯学習センター」([2002]) 「学びピア21施設案内」(生涯学習センター 2016.4) 「足立区生涯学習センター施設ご利用案内」(あだち学びときずな創造事業体) 『生涯学習空間』通巻27(ボイックス 2001) 「足立区中央図書館」(〔2000〕) いずれも「ピア」の意味についての記述は見当たらなかった。 3 足立区ホームページにあたる (https://city.adachi.tokyo.jp 最終アクセス日2024年4月10日)特設サイト「あだち広報」デジタルアーカイブで検索〈学びピア21/愛称〉を1998年から2001年に絞って検索。2000(平成12)年2月25日号6面を見る。「生涯学習総合施設の愛称名は「学びピア21」に決定」の記事あり。選定理由などの記載はなかった。〈生涯学習センター/愛称/募集〉で検索。1999(平成11)年9月10日号4・5面に「施設の愛称名」の募集要項あり。〈学びピア21〉で検索。2000(平成12)年6月10日号に「学びピア21」オープンの記事あり。愛称の説明などはなかった。足立区ホームページ内のカスタム検索で〈生涯学習センター/公募/愛称/1999〉〈生涯学習施設建設室〉などで検索するが、愛称の意味や選定理由のわかるものは見あたらなかったアーカイブの記事を『あだち広報』縮刷版で確認。 『あだち広報』縮刷版 平成10年4月~12年3月(足立区企画部広報課編 足立区企画部広報課 2000)p.366、p.271 『あだち広報』縮刷版平成12年4月~14年3月(足立区政策経営部広報課 2002)p.33 4 収集している足立区関係資料(新聞・会報誌類)にあたる「足立区立中央図書館としょかんだより」38号(2000年3月15日発行)に「愛称学びピア」とあるが意味の記載なし。「足立よみうり」第189号(足立読売発行 2000年7月7日)「「学びピア21」開設」の記事に意味の記載なし。「足立朝日」第61号(足立朝日会発行 2000年7月5日)「学びピア21オープン」の記事中に4月号で特集をしたとあったが、当館保存分は4月号欠号のため区政情報室所蔵の2000年4月号で確認する。「学びピア21」の由来や決定に関する記事はみあたらなかった。『あだち教育だより』第14号(あだち教育だより編集委員会編 足立区教育委員会 平成12年7月10日)2面「“学べるユートピア”を活用したい」に千寿本町小学校長高田昌明氏の「学びピアという名前はなんとなくユートピアを連想させていいですね(後略)」の記事があったが、由来がユートピアによるものなのかは確認できなかった。 5 「ピア」の意味を調べる『広辞苑』第7版(新村出編 岩波書店 2018)「ピア」なし。『コンサイスカタカナ語辞典』第5版(三省堂編修所編 三省堂 2020)p.896「ピア」「1〔peer〕同じ地位にある者。同僚。仲間「ピア」2〔pier〕1桟橋、波止場 2角柱」とあり。『ランダムハウス英和大辞典』第2版(小学館ランダムハウス英和大辞典第2版編集委員会編 小学館 1994)p.2003「peer」「同等の地位の人〔古〕友達」とあり。 6 「足立区生涯学習センターホームページ」を見るが意味についての記述なし (https://www.adachi-

江戸時代に「道中奉行」という役職があった。千住の道中奉行はいつ頃設置され、誰が勤めたのか知りたい。(足立区立中央図書館)

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「道中奉行」とは、五街道とその付属街道宿駅の取締りや道路・橋梁以下、道中関係すべてを管掌した幕府の役職になるため、各街道ごとの奉行職は設置されていない。そのため、千住のみの道中奉行はいない。 「道中奉行」が設置された年や勤めた人物については【資料1】に記述があった。【資料2】に「道中奉行一覧」あり。 回答プロセス:1 「道中奉行」について調べる【資料1】p.176「道中奉行」の項に「五街道とその付属街道宿駅の取締りや道路・橋梁以下、道中関係すべてを管掌した幕府の役職」とあり。設置された年は一般的に万治2年(1659)大目付の高木伊勢守守久が道中奉行を兼任したのがはじまりとされていること、元禄11年(1698)勘定奉行の松平美濃守重良が道中奉行の加役となって以降、大目付・勘定奉行兼任の二人職となったことがわかった。歴代の道中奉行名は記載なし。 『江戸幕府役職集成』(笹間良彦著 雄山閣出版 1999)大目付の項p.254「道中奉行を兼帯する者は大目付の主席で、御勘定奉行公事方から加役で道中奉行を兼ねる者の上になる」の記述あり。 『江戸役人役職大事典』(新人物往来社編 新人物往来社 1995)p.74「道中奉行」仕事の内容、役高・役料、設置年などの記述あり。奉行を務めた人物について何名かの名前が記載されていた。 2 大目付と勘定奉行について調べる 『国史大辞典』第2巻う-お(国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1980)p.709「大目付」に「(前略)万治2年(1659)7月道中奉行を設置した際、大目付高木伊勢守守久がこれを兼任した、以降宗門改・道中奉行をもに大目付の加役となった(後略)」とあり。歴代の大目付の記載なし。 『国史大辞典』第3巻か (国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1983)p.837「勘定奉行」に「(前略)元禄元年(1688)就任した松平重良は、在職中の同11年道中奉行兼帯を命ぜられ以降勘定奉行のなかから一名が大目付とともに道中奉行を兼ねるようになった(後略)」とあり。「勘定奉行一覧」p.838からp.845まであり。「公事方」と記載のある人物が道中奉行を兼帯していることは『江戸幕府役職集成』で確認済み。 『江戸幕府諸役人御用番名鑑』(深井雅海監修 柊風社 2014)収録は万治4年(1661)から。万治2年(1659)は収録外。p.25元禄11年(1698)4月に勘定奉行松平美濃守重良あり。以降、p.273慶応4年(1868)3月勘定奉行原弥十郎清穆まで記載あり。全てではないが(公)(勝)(道)の略号が付記されている。凡例p.5から公事方、勝手方、道中方とわかる。大目付の記載はなし。 3 大目付で「道中奉行」に任ぜられた人について調べる。 『日本史総覧』コンパクト版1(新人物往来社 1987)p.364からの「江戸幕府諸職表」は大老と老中のみ。大目付は収録なし。 4 「682・1」の棚をブラウジング 【資料2】p.281 表2「道中奉行一覧」あり。年月日順に、大目付方兼役・加役、勘定奉行方兼役加役を一覧にした表で、万治2(1659)から慶応3(1867)まで記載あり。 参考 高崎市立中央図書館レファレンス事例 (0131224533)「道中奉行について知りたい。どんな役職で、誰が就いていたのかなど。」(https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000194576) 長野市立長野図書館 レファレンス事例(長野市立長野12-021)「江戸時代の道中奉行を文化4年と5年に誰がやっていたのか、名前を知りたい。(2人いたはず)」(https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000113119) 他に「道中奉行」についての記載があった資料『新修足立区史』上 (東京都足立区役所編 東京都足立区役所 1967)『江戸幕府大事典』(大石学編 吉川弘文館 2009)『大江戸役人役職読本』(新人物往来社編 新人物往来社 2009)『江戸時代奉行職事典』(川口謙二ほか著 東京美術 1983)『江戸幕府役職集成』増補版(笹間良彦著 雄山閣出版 1967)『交通史』体系日本史叢書24(豊田武編 山川出版 1976) 参考資料:【資料1】『国史大事典』第10巻(国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1989), 参考資料:【資料2】『日光道中江戸近郊の宿駅と文化』(佐藤久夫著 佐藤久夫 1993),

今年4月、千住で「空襲犠牲者追悼式」があった。3月ではなく4月に行われた理由を知りたい。また、足立区の空襲について被害状況などがわかる資料を見たい。(足立区立中央図書館)

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追悼式が4月に行われた理由は、足立区公式ホームページに記載があり、昭和20年4月13、14日の空襲により千住地域を中心に大きな被害を受けたこと、戦争の悲惨さや平和の大切さを再認識し、東京大空襲によって犠牲になられた方々を追悼するため、空襲があった日と同じ4月13日に、特に被害の大きかった千住地域(足立区生涯学習センター)で追悼式を実施したことがわかった。 空襲による区内の被害状況については【資料1】【資料2】に詳細な記載あり。 回答プロセス:1 足立区公式ホームページにあたる 〈空襲〉で検索しヒットした中から「「足立区東京大空襲犠牲者追悼式」を実施しました」(公開日2023年4月20日)を見る。 「78年前に空襲があったと同じ日に特に被害の大きかった千住地域(生涯学習センター)で追悼式を実施した」とあり。(https://www.city.adachi.tokyo.jp/somu/chiikibunka/kuminsanka/tokyodaikusyu-tsuitou.html 最終アクセス日 2023年8月27日) 関連リンクの「東京大空襲の記憶」には『新修足立区史』下巻より引用の「東京空襲(昭和19年11月から昭和20年8月)における犠牲者数」の記載あり。(https://www.city.adachi.tokyo.jp/somu/chiikibunka/kuminsanka/tokyo-daikusyu.html 最終アクセス日2023年8月27日) 「こちらの記事も読まれています」から「区政90周年記念企画 語り継ぐ-あだちの戦争-」(2022年8月8日公開)の「区内や疎開の地で戦争を体験した方々」の記事では「あだち広報8月10日号」紙面のインタビューでは載せきれなかった方々の話を紹介していた。(https://www.city.adachi.tokyo.jp/pickup/kataritsugu.html 最終アクセス日 2023年8月27日) 2 広報誌「あだち広報」2022年8月10日号で4月の空襲について確認する。 p.6~p.7に「戦争を体験した足立区在住の4人にお話を伺いました」の記事があり、このうち3人の方が4月13日の空襲について語っている。 3 足立区の資料にあたる 【資料1】「第12章 災害史」の「第2節 戦災の記録 1空襲と被害」 p.1066「東京都戦争被害統計表」に足立区の死亡333、重症256、軽症229、合計818とあり。 p.1069~1073「2 区内の被害」は足立区に関係あるものを主として日を追って記載されている。4月13・14日の空襲の記述では「(前略)足立区では3月10日よりこの時の方が被害が大きく(中略)罹災戸数18,590戸、罹災者65,770名、足立区役所、税務署、農林倉庫、大和毛織、千寿国民学校、千寿第二国民学校、同第六国民学校、同第七国民学校が失われた」とあり。 p.1073からの「東京都空襲日記表」では、空襲年月日、機種と機数、被害地区、被害概略がわかる。。 p.1083に区内の被害がわかる「爆撃による被害地域分布図」あり。 『足立風土記稿』地区編5梅島 p.62「空襲」に「(前略)足立区でもっとも被害が大きく罹災者55,000名を出した4月13日~14日の空襲で(後略)」とあり。「本項『足立区郷土博物館紀要』第17号所載情報による」とあった。 4 『足立区郷土博物館紀要』にあたる 「第17号」p.22からの「足立区域の空襲について 基礎データの整理から」(多田文雄著)には「足立区域の空襲一覧」「足立区の空襲回数」「被害地域と被害規模」「空襲被災地の分布概念図」あり。p.32「むすびにかえて」には、足立区には1942(昭和17)年のドーリットル空襲から終戦直前の1945(昭和20)年8月10日まで計14回の空襲があったこと、被害地域はほぼ全域に広がったこと、65,000人以上が罹災したこと、これらの空襲は東京を目標とした大規模空襲の一部であり、一部単独の攻撃が加えられたことによったことなどの記述があった。 参考資料:【資料1】『新修足立区史』下(東京都足立区役所編 東京都足立区役所 1967), 参考資料:【資料2】『足立区郷土博物館紀要』第17号(足立区郷土博物館編 足立区郷土博物館 1995),

今年行われている万博について聞きます。以前にも大阪万博があったそうですが、写真集みたいなものはありますか?(宮城県白石工業高等学校図書館)

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ありました。あいにく未登録資料なので、資料修理・登録が済み次第貸出します。なお、県内公共図書館では角田市図書館に同じ資料の所蔵がありますので、お急ぎの場合はそちらをご活用ください。 回答プロセス:「万博」「万国博」「EXPO」等の言葉でOPACを引くがヒットせず。書庫内をつぶさに見ていくうちに、その半分ほどが昭和期出版の未登録資料であることが判明。年鑑・辞典類が山積みになっている中に該当する資料を発見し、カウンターで見てもらった。 その後、宮城県内図書館総合目録で検索。どちらかというと1985年のつくば万博の資料が多い。大阪万博については新聞社系の出版が複数なされていることを確認した。この事後調査の中で角田市図書館に同じ資料があることが判明したのでその内容を質問者に伝えた。 参考資料:朝日新聞社 編. 写真集日本万国博 : EXPO'70. 朝日新聞社, 1970. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000001-I23111100241654,

現在大府北中学校がある場所に、「オイワケ城」という城があったのかどうか。城主も知りたい。(おおぶ文化交流の杜図書館)

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追分城は永禄2年(1559)に稲垣淡路守によって築城されたと伝えられている。 しかし、その後いつまで存在していたか、その後の城主などの記録がはっきりわかる資料は当館では確認できなかった。 城のあった場所は天保12年(1841)の古地図に「古城跡」との記載があり、少なくともこれ以前には城はなくなっていたと推測される。 回答プロセス:○追分城について ・『大府市誌』 大府市誌編さん刊行委員会/編 愛知県大府市/発行                                                             →p166に追分城あり。〈昭和7年、大浜街道建設のさいに、土塁跡などが破壊された。現在は跡がない。稲垣淡路守が永禄2年(1559)に築城したというが、『尾張古城録』には「何人の城か知りがたし」〉とある。 また、「天保12年(1841)古絵図で推定すると、城の規模は面積約六反(595.2平方㍍)、堀幅三間(5.4㍍)である。」とある。   ※『尾張古城録』  当館所蔵なし 県内なし 国会図書館のみ、デジタルコレクションなし ・『大府市 近世村絵図集』大府市誌編さん刊行委員会/編集 大府市役所/発行 この中の「5 追分村絵図」に城が載っているか確認。                                                   →絵図の中央辺りに〈浄通院 古城跡〉の字あり。 地図が天保12年(1841)時のものであり、この頃は既に古城跡となっていたことがわかる。                                                           ・『城 第203号』 東海古城研究会/著・発行                                                          →p17~「知多半島・大府市の城館上」の論文の中にp20追分城についての記載あり。 〈『覚書』『徇行記』は「城主不知」〉とある。  ※『名古屋叢書 続編第8巻 尾張徇行記』 名古屋市教育委員会/編 愛知県郷土資料刊行会/出版                                                         →追分村の項のp169に〈覚書ニ古城跡一ヶ所、城主不知、今ハ畠とトナル、府志ニナシ〉とあり。 また、この論文の引用に大府町史の浄通院に関するものがあったため、大府町史を確認。                                ・『大府町史』 大府町史編纂委員会/編 大府町/発行                                                           →p718浄通院を確認。 <浄通院は永禄2年に開山したが、開基についての一説に〈当村(緒川村)北方字元屋敷の城主稲垣淡路守の発願創立といわれる。〉 との記載あり。       ・『日本の城辞典』 日本城址研究会/編著 新星出版社/発行                                                         →p336に追分城の年代〈永禄2年~不明〉、城主〈稲垣淡路守〉とある。  〇稲垣淡路守について ・『寛政重修諸家譜 第6』 続群書類従完成会/発行                                                                       →稲垣淡路守について調査。稲垣何某という人物で淡路守という記載のある者は、追分城築城時辺りにいた人物では確認できず。 ・『 角川日本姓氏歴史人物大辞典 23 』 愛知県姓氏歴史人物大辞典編纂委員会/編著  角川書店/発行  →p624~「稲垣」姓の箇所を見るが記載なし。関連のありそうな人物の記載も見当たらない。 前述資料 『城 第203号』東海古城研究会/著・行 のp20~21の[追分城]の項より ・『大府の祭り』 大府青年会議所/編・発行  →p20では、〈追分藤井神社の稲垣淡路守の奥方に関する伝承を紹介しているものの、現状では伝説だけの人物になろう〉、 〈やはり築城時期、城主、廃城期などのすべてが不詳の城址である〉との記載もある。 参考資料:大府市誌, 参考資料:大府町史, 参考資料:大府市 近世村絵図集, 参考資料:尾張の古城 全340城を訪ねて, 参考資料:日本の城辞典,

ある者が一夜にして運河(または堀)を一人で造るよう命じられ、それを確認しようと見ていた人は何故か寝てしまい、目が覚めると完成していたというお話(絵本)について知りたい。(安城市図書情報館)

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質問のとおりの作品は見つけられなかったが、近い内容のものとして以下のものを提供した。 『だいくとおにろく』(EJ/アカ/) 『みっつのなぞ』(EJ/ヒラ/) 回答プロセス:・インターネットにて「一晩」「堀」「運河」などのキーワードを検索するが該当すると思われる資料は見つけられなかった。 ・レファレンス資料『テーマ・ジャンルからさがす物語・お話絵本』(028/デイ/RS)にて索引から「堀」「運河」をさがすが該当すると思われる資料は見つけられなかった。 ・図書館スタッフに質問の内容について心当たりがないかヒアリングを行う。  →近い内容のお話として以下の資料の情報を得る。   『だいくとおにろく』(EJ/アカ/)   『みっつのなぞ』(EJ/ヒラ/) 参考資料:松居直再話 ; 赤羽末吉画. だいくとおにろく : 日本の昔話. 福音館書店, 2007. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000136-I1130000796981465216, 9784834000856 参考資料:武田正再話 ; 平山英三画. みっつのなぞ : 山形の民話. 福音館書店, 1997. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000136-I1130282268737329920,

サークルの活動で手話歌を動画にあげたい。 YouTubeに動画をアップする場合の著作権について載っている資料がみたい(安城市図書情報館)

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下記の資料を提供 『YouTube完全マニュアル はじめての動画配信なら!』(547.4/クワ/I) 『仕事でSNSを使いたいけど初心者の「やらかし」が怖いので弁護士さんに気になること全部質問してみた』(021.2/ヤマ/) 『60分でわかる!最新著作権超入門 』(021.2/スト/) 『Q&A実務家のためのYouTube法務の手引き 』(547.4/カワ/I) 『歌ってみた制作バイブル 』(547.4/コイ/YA) 『著作・創作にかかわる法律 』(021.2/オカ/) インターネットの紹介 ・一般社団法人 日本音楽著作権協会 JASRAC ・一般社団法人 日本レコード協会 回答プロセス:・業務システムにて すべて=「YouTube␣著作権」で検索 →『YouTube完全マニュアル はじめての動画配信なら!』(547.4/クワ/)   P277 動画で歌唱や演奏をしたり、再生するための音楽の権利を解説 →『仕事でSNSを使いたいけど初心者の「やらかし」が怖いので弁護士さんに気になること全部質問してみた』(021.2/ヤマ/)   P92 カラオケ 「歌ってみた」動画をSNSにあげていいか? ・「021.2」(著作権)「547.4」(有線通信)の棚をブラウジング →『60分でわかる!最新著作権超入門 』(021.2/スト/)   p112 「歌ってみた」「弾いてみた」投稿と著作権法 →『Q&A実務家のためのYouTube法務の手引き 』(547.4/カワ/I)   P34 「歌ってみた」動画と音楽の利用方法 →『 歌ってみた制作バイブル 』(547.4/コイ/YA)   P122 「歌ってみた制作」で必要な権利の知識 →『 著作・創作にかかわる法律 』(021.2/オカ/)   P216 音楽に関する権利処理 ・インターネットにて「著作権」などのキーワードや上記の資料を参考に検索 →一般社団法人 日本音楽著作権協会 JASRAC  一般社団法人 日本レコード協会 参考資料:桑名由美, 木村剛大 著. YouTube完全マニュアル : はじめての動画配信なら! 第4版. 秀和システム, 2024. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I033704658, 978-4-7980-7341-5 参考資料:ヤマサキミノリ, 日比野大 著. 仕事でSNSを使いたいけど初心者の「やらかし」が怖いので弁護士さんに気になること全部質問してみた. サンマーク出版, 2024. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I033251276, 978-4-7631-4101-9 参考資料:STORIA法律事務所 編著 , 石田怜夢 [ほか] 著. 60分でわかる!最新著作権超入門. 技術評論社, 2024. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I033539248, 978-4-297-14212-4 参考資料:河瀬季 著. Q&A実務家のためのYouTube法務の手引き. 日本加除出版, 2022. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I032422724, 978-4-8178-4849-9 参考資料:小泉こいた。貴裕 著 , 日本歌ってみたMIX師協会 監修. 歌ってみた制作バイブル : 初心者歌い手とMIX師のための実践ガイド. リットーミュージック, 2024. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I033688450, 978-4-8456-4117-8 参考資料:岡本健太郎 著. 著作・創作にかかわる法律 : これでおさえる勘どころ. 法研, 2024. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I033263516, 978-4-86513-727-9

西三河南部(旧碧海郡・幡豆郡)における伊勢神宮の遥拝等について次のことを知りたい  A.伊勢神宮の遥拝の事例、地名  B.伊勢参詣の事例  C.伊勢神宮の遙拝所に関わる書物(安城市図書情報館)

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Aについて以下の資料を提供した ①『安城の地名』(A290/アン/A) ②『碧南市史 第2巻』(A23/57/2) Bについて以下の資料を提供した ①『岡崎市史 第8巻』(A23/48/8) ②『新編岡崎市史 10』(A233.2/シン/10) ③『刈谷町庄屋留帳 第11巻』(A234.4/カリ/11) ④『愛知県幡豆町誌』(A235.2/ハズ) ⑤『刈谷風土記』(A382/カリ) ⑥『明治村史 下巻』(A234.5/メイ/) Cについて以下の資料を提供した ①『伊勢神宮 東アジアのアマテラス』(175.8/セン) ②『日田神社蒐集録』(書誌ID 000001747822) ③『あいちの街道 ひざくりげ」(A290/タニ) ④『東洋研究(66)』(書誌ID 000000016911) ⑤『愛知県史 別編 民俗』(A201/アイ/ベツ-ミン) 回答プロセス:Aについて 1.安城デジタルアーカイブのキーワードに「丁拝」「遥拝」「伊勢」などで検索→該当なし 2.国立国会図書館デジタルコレクションのキーワードに「遥拝 碧海」、件名に「伊勢神宮」で検索→該当なし 3.国立国会図書館デジタルコレクションのキーワードに「伊勢神宮 遥拝所 丁拝」で検索 →回答① p312「丁拝(和泉町)」について記述あり 4.国立国会図書館デジタルコレクションのタイトルに「岡崎市」「碧南市」「刈谷市」「安城市」「知立市」「高浜市」「豊田市」「西尾市」「幸田町」 「幡豆」「碧海」を入力し、キーワードに「伊勢 遥拝」で検索 →回答② p202「朝拝 根崎に長配(丁拝)があるが、共に伊勢神宮を遥拝した所。」との記述あり Bについて 1.業務システムにて「すべて」に「伊勢参詣」「代参」「幡豆郡」「碧海郡」を組み合わせて検索→該当なし 2.安城デジタルアーカイブのキーワードに「碧海郡」で検索→該当なし 3.安城デジタルアーカイブのキーワードに「幡豆郡」で検索→「桜井小誌」がヒットするも該当する記載なし 4.国立国会図書館デジタルコレクションの「タイトル」に「幡豆郡」または「碧海郡」、キーワードに「伊勢」で検索→該当なし 5.国立国会図書館デジタルコレクションの「タイトル」に「岡崎市」「碧南市」「刈谷市」「安城市」「知立市」「高浜市」「豊田市」「西尾市」「幸田町」それぞれを入れて、「キーワード」に「伊勢 参詣」で検索→回答①~⑤を提供  ① p185-193「御影参り」について記述あり  ② p24.p855-857「御蔭参り」について記述あり  ③ 「伊勢神宮のお礼参り」について、1巻には「伊勢之参詣仕度」について記述があり。同著書に該当箇所が    複数巻見られるためシリーズを紹介  ④ p303「伊勢参りは舟がよく出るので講は作られていない。舟が……」と記載あり  ⑤ p180-「伊勢さん代参舟」についての記載あり 6.郷土の棚ブラウジングより  →回答⑥ P400 若い衆の伊勢神宮へ抜けまいりについて記述有 Cについて 1.業務システムにて「すべて」に「伊勢神宮」で検索 →回答① p117-124「府県庁所在地の遙拝所」「開港場の遥拝所」について記述あり 2.国立国会図書館デジタルコレクションのキーワードに「伊勢神宮 遥拝所」で検索→回答②~④を提供  ② p124「下河内天満社」に伊勢神宮の遥拝所があることが分かる記述あり  ③ p13-14「飯田街道」の紹介の中で「伊勢神宮遥拝所を設け、「石神峠」を「伊勢拝峠」と改めた。」と記述あり  ④p151-187 「化政期天領代官の思想と政策」     p172 塩谷大四郎正義(明和七~天保七、36年間各地天領の代官・郡代をつとめる)の信仰について    「疾病のある場合に必ず斎戒沐浴して神仏に祈願した。伊勢神宮に遥拝所を各村に設けさせ、村民に月の朔日には    必ずここで遥拝させた。」と記述あり 3.愛知県史を確認  回答⑤ p741「伊勢信仰」に東栄町月の遙拝所についての記載有り 参考資料:安城の歴史を学ぶ会 編. 安城の地名. 安城市教育委員会, 1986. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001821229, 参考資料:碧南市史編纂会 編. 碧南市史 第2巻. 碧南市, 1970. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001217413, 参考資料:柴田顯正. 岡崎市史 第8巻 第8巻. 柴田顯正, 1930. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000074-IALIS_QQ00773301, 参考資料:岡崎市. 新編岡崎市史 10. 新編岡崎市史編さん委員会, 1987. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000001-I2611B10415349, 参考資料:刈谷市教育委員会/編. 刈谷町庄屋留帳 第11巻. 刈谷市, 1983. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000001-I23211009210161822, 参考資料:幡豆町誌編集委員会 編. 愛知県幡豆町誌. 国書刊行会, 1981. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001523148, 参考資料:刈谷郷土を学ぶ会 編. 刈谷風土記. 刈谷郷土を学ぶ会, 1983. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001698965, 参考資料:明治村史編纂委員会編. 明治村史. 安城市役所, 1966. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000136-I1130282271005861760, 参考資料:千田稔 著. 伊勢神宮 : 東アジアのアマテラス. 吉川弘文館, 2023. (読みなおす日本史) https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I032551556, 978-4-642-07520-6 参考資料:谷彰 著. あいちの街道ひざくりげ. 第一法規出版, 1983. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001641412, 参考資料:愛知県史編さん委員会 編集. 愛知県史 別編 民俗 3. 愛知県, 2005. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I031610063,

『シベリアの俳句』(978-4-7634-0996-6,ユルガ・ヴィレ/文,リナ板垣/絵,木村文/訳)という本の中に、「ツノパンがなる木」が出てくる。「ツノパンがなる木」は本当にあるのか。また、この地域にそのような木があるという伝承や、お話があるのか知りたい。(安城市図書情報館)

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バルト地域、ヨーロッパ、ロシアの神話や民話、宗教、風習、伝承等を調べてみたが、これらの地域で「ツノパンのなる木」についての記述については見つけることができなかった。依頼者が読んだ「シベリアの俳句」が実話を基にした創作作品であり、かつ当館に所蔵がないため、作者がどのような意図で「ツノパン」の記述をしたのかは分からないが、以下を参考として提供。 【参考資料】 ① ドイツトウヒ (学名:Picea abies)が「パンの木」とよばれている。 ヨーロッパ地域に分布する針葉樹で、クリスマスツリーなどにも使われる。 ドイツ語で「Brotbaum」とよばれ、「Brot」がドイツ語でパンの意味。また、「生計」や「生活の糧」という意味もある。 ・出典:kinshizen-ringyo.com 「なぜドイツトウヒは‘パンノキ‘と呼ばれるのか」(最終閲覧日:2025/4/17) ・『樹木図鑑』(653.2/コン/A)  p66 「ドイツトウヒ」の葉と果実の写真あり パンの木と呼ばれているとの記述なし ※ちなみにフィンランドでは、トウヒの新芽を食べる ・出典:kittos shop 「フィンランド・自然の恵み、針葉樹トウヒの新芽は食べれる」(最終閲覧日:2025/4/17) ②ヨーロッパ栗の木は「パンの木」と呼ばれていた 古代ローマ時代にはヨーロッパ全域や、北方にまで、栗の木が植林されていて、 「パンの木」とよばれていた。充分な穀物が栽培できない山間部などの土地では主食として重要な植物であった。 ・出典:足立音衛門HP「音衛門のヨーロッパ栗へのこだわり」(最終閲覧日:2025/4/17) ・『栗』(625.7/イマ/A) パンの木と呼ばれていたかは不明 ③ヨーロッパでの伝統的な春の祝祭に「メイデイ」があり、「メイポール」という樹木を崇う習慣がある。白樺などの木の枝を落とし、棒に仕立て、リボンや人形、パンや花などを飾りつける習慣がある ・『ヨーロッパの祝祭と年中行事』(386.3/コズ/)p115 回答プロセス:1.レファレンス本を確認 ➡記述を見つけられなかった 『テーマ・ジャンルからさがす物語・お話・乳幼児絵本』(028.0/デイ/RS) 『世界の伝統文化・風習レファレンスブック』(361.5/ニチ/) 2.「293」(ヨーロッパ地理)の棚をブラウジング ➡記述を見つけられなかった  『バルト三国歴史紀行 3 リトアニア』(293.8/ハラ/T) 3.業務システム、インターネット、デジコレにて下記のキーワードにて検索 「パンの木」、「パンのなる木」、「神話」、「ヨーロッパ␣伝説」、「パンの木␣ヨーロッパ」 「リトアニア␣神話」、「樹木信仰」、「クリスマスオーナメント␣パン」など ➡インターネットにて、ヨーロッパ地域の「パンの木」情報をみつける 4. 3に基づき蔵書を確認 参考資料:アレン・J.クームス 著 , マシュー・ウォード 写真 , 原登志彦, 西川栄明 監訳 , 千葉啓恵 訳. 樹木図鑑. 創元社, 2024. (自然科学ハンドブック) https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I033629834, 978-4-422-43056-0 参考資料:今井敬潤 著. 栗. 法政大学出版局, 2014. (ものと人間の文化史 ; 166) https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I025461332, 978-4-588-21661-9 参考資料:マドレーヌ・P・コズマン 著 , 加藤恭子, 山田敏子 訳. ヨーロッパの祝祭と年中行事 新装版. 原書房, 2015. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I026647524, 978-4-562-05198-4
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