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モンゴルの民族衣装をカラー写真で見たい。どんな特徴があるかなどが知りたい。(足立区立中央図書館)

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カラー写真は【資料1】~【資料4】と【資料6】で見られる。 特徴については【資料1】に詳しい記述あり。【資料4】は伝統的な衣装のデールについての記述、【資料6】は第1章、第2章、第4章に記述がある。 【資料5】には衣装を着ている場面や階級等の説明があり紹介。 回答プロセス:1 民族学の棚に直接あたる。 【資料1】の「3 中央アジア」に「モンゴル」あり。p.126~p.137に「シャーマンの衣装」「ツァム舞の衣装」「モンゴルの日常着」「男女の基本的服装」「履き物」「外衣」「被り物」「髪型」「衣料小物」「特別な衣装」「変わりゆく服装」の項目で詳細な記述とカラー写真多数あり。p.137「変わりゆく服装」に「現在でもモンゴルでは多くの人がデールを着ている。男性の仕事着の丈夫な生地は世界共通のデニムに取って代わった。(後略)」とあり。 【資料2】p.40「蒙古族(Mongol モンゴル族)」あり。「歴史と風土」「男性の服飾」「女性の服飾」「相撲服」の説明あり。p.39にカラー写真1枚と説明あり。 【資料6】特定の国の民族衣装についての記述ではなく衣装と民族の関係性について4章に分けて書かれている。モンゴルの衣装の解説と写真はp.11、p.13、p.25、p.29、p.42、p.52にあり。p.179にはモンゴル相撲の写真とその衣装についての解説がある。 2 業務端末で所蔵資料を検索 【資料3】目次の「アジアの衣装」にモンゴルは無いが「中国少数民族の衣装」p.45に「モンゴル族(蒙古)」の夏服のカラー写真1枚あり。特徴の記述なし。 【資料4】p.79にナーダムという祭りに参加している少年のカラー写真と少年が着ている「デール」についての記述あり。 【資料5】「家族の肖像、同郷の絆」p.125「特別な日のよそおい」p.162「アッパークラスのよそおい」p.181にモノクロ写真あり。 参考資料:【資料1】『世界の民族衣装文化図鑑』1 中東・ヨーロッパ・アジア編(パトリシア・リーフ・アナワルト著 柊風舎 2011), 参考資料:【資料2】『世界の民族衣装の事典』(丹野郁監修 東京堂出版 2006), 参考資料:【資料3】『世界の民族衣装をたずねて』(市田ひろみ著 淡交社 1999), 参考資料:【資料4】『世界の愛らしい子ども民族衣装』(エクスナレッジ 2016), 参考資料:【資料5】『100年前の写真で見る世界の民族衣装』(ナショナルジオグラフィック編 日本ナショナルジオグラフィック社 2013), 参考資料:【資料6】『衣装の語る民族文化』(今木加代子著 東京堂出版 2017), 備考:2022年4月12日 追記 下記の情報をいただきました。 国立民族学博物館(みんぱく)の衣服・アクセサリーデータベースで検索しますと、様々なモンゴルの民族衣装のカラー写真を見ることができます。 衣服・アクセサリーデータベース https://htq.minpaku.ac.jp/databases/mcd/clothing.html

昔の貨物専用「隅田川駅」は、線路と線路の間がドックのような入り江になっていたと本で読んだ。それがわかる写真や地図と現在の様子がわかる写真や地図とを比較して見てみたい。(足立区立中央図書館)

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【資料1】から所在地と昭和36年から舩渠の埋め立てが始まったことがわかったので、比較するための資料として以下を紹介した。 明治30年頃から昭和36年に埋め立てがはじまるまでの地図【資料2】大正5年・昭和4年、【資料3】明治44年 埋め立て後の地図【資料4】昭和56年、【資料5】平成5年、【資料6】令和元年、【資料7】昭和42年 駅ができる前の様子がわかる地図【資料3】明治13年 回答プロセス:1 『平成の東京12の貌』を確認する。 「JR貨物「隅田川駅」のいま」p.296に「(前略)線路の突端は、本当に隅田川に接していた。それどころか、線路と線路の間にはドッグのような入り江があり、貨車と船が荷物を直接受け渡せる構造だったのだ」とある。それがわかるような写真・地図は載っていない。 巻末の初出一覧に「文藝春秋 2019年1月号」とあったので当該号にあたる。 p.404「どっこい生きてる貨物専用隅田川駅」のタイトルバックに写真4枚あり。「ドックのような入り江」がわかる写真ではなかった。 2 隅田川駅の開業年と「ドックのような入り江」が無くなった年を調べる 【資料1】p.45「常磐線貨物支線 隅田川駅」に「(前略)昭和36(1961)年から船渠の埋め立てがはじまっており(後略)」とあり、駅の所在地、開業年月日の記述もあった。所在地は東京都荒川区南千住、開業は明治30(1897)年4月1日(日本鉄道隅田川貨物取扱所)。 同ページには「水運華やかな昭和22年の隅田川駅。線路間に船渠が入り組み、船舶の姿も見える(後略)」の説明がある空中写真が掲載されていた。 p.44には写真が2枚あり、「隅田川駅のコンテナホーム。かつてはこの部分が船渠となり、貨車~船舶の荷役が行われていた」の説明と「隅田川から引き込まれた運河と汐入水門の遺構」の説明がついている。 3 明治30年頃から昭和35年頃までの地図・写真にあたる。 『明治前期・昭和前期・東京都市地図』1 東京東部(清水靖夫編 柏書房 1995) p.41「東京首都1932年(昭和7)」隅田川駅あり。東側に南北に流れる隅田川から引かれた水路は途中でほぼ直角に北に向かっている。北に向かう手前で東西に引き込む水路と南北に引き込む水路と分かれている。どちらも水路は行き止まりになっている。 p.43「東京首都1965年(昭和40)」1932年と同じ。 p.39「東京首都」1880年(明治13年)該当地域は田の記号となっている。どの地図も縮尺は2万5千分の1なので縮尺が大きい地図を探す。 【資料2】の収録地図 「早わかり番地入東京市全図」(大正5年)縮尺不明。「隅田川貨物停車場」あり。線路5本。東側に流れる隅田川から引き込んだ水路が確認できる。 「帝都復興東京市全図」(昭和4年)縮尺1万分の1。水路大小合わせて6本あり、水路と水路の間には途中で分岐や連結された線路が10本以上敷かれていることがわかる。 【資料3】の収録地図 「番地入東京府南足立郡千住町 東京府北豊島郡南千住町全図」明治44年、縮尺5千分の1。東に流れる隅田川から西に向かって水路が引かれ、途中から北に向かっている。北に曲がる手前で南方向に3本の行き止まりとなっている水路あり。北に向かう水路からは西に向かって3本の行き止まりの水路が引かれているのがわかる。南に向かう水路よりどれも幅が広く長い。それらの水路と水路の間には線路が合わせて13本引かれている。 「索引図」縮尺3万分の1。隅田川駅には水路が無く線路は13本確認できる。「最新地図」とあるが作成年は不明。 【資料8】該当場所は「南千住4丁目」とのみ記されており水路は7本確認できるが、隅田川貨物駅と線路は記載されていない。水路は東の汐入橋と北の汐路橋とで隅田川とつながっていることが確認できる。縮尺9千分の1。 4 昭和36年頃から現在までの地図・写真にあたる 【資料4】「38 隅田川駅周辺(昭和56年7月12日撮影)」写真縮尺1:4600。 「貨物の北の玄関 隅田川駅周辺」の写真は水路が堰き止められてコンクリートの路面となり、コンテナが並んでいることがわかる。 【資料5】目次ページに「1993年撮影 高度約3000m 縮尺1:9000」とあり。 p.66「29 葛飾区墨田区荒川区」水路ではなくコンクリートに覆われてコンテナと思われるものが各所に並んでいる。隅田川からの入り口は堰き止められていることがわかる。 【資料6】 p.30 南千住4丁目のJR貨物隅田川駅北側にホームセンターがありその北側は通りを挟んで商業施設、UR都市機構のタワー棟やトミンタワー、都営南千住4丁目アパートなどあり。 p.32「30図~31図別記」からアパートは32階まであることがわかる。 【資料7】縮尺9千分の1。南に向かう3本の水路と、西に向かう水路のうちの一番南にあった水路がなくなっていることがわかる。 5 明治30年以前の地図も確認する。 【資料2】収録地図「実測東京全図」(明治11年)該当地域に「橋場地方」と記載あり。隅田川は東側を南北に流れそこから引かれた「四番用水」が西の三ノ輪村まで続いていることが確認できる。北には「五番用水」が隅田川から西に引かれていることもわかる。縮尺は「日本里法」とあり。その縮尺によると四番用水は13町ほどになる。 他に確認した地図 『最新大東京全図』(人文社 2006) 『東京全図』(人文社 2006) 記述のなかった資料 『貨物を行く』(イカロス出版) 『消えた!310路線 東京の鉄道』(イカロス出版 2018) 『JR貨物の魅力を探る本』(梅原淳著 河出書房新社 2019) 『貨物列車』(高橋政士著 秀和システム 2011) 事前調査事項:『平成の東京12の貌』(文藝春秋 2019)の「JR貨物「隅田川駅」のいま」で読んだ。 参考資料:【資料1】『図説街場の鉄道遺産』東京23区編(松本典久著 セブン&アイ出版 2014), 参考資料:【資料2】『明治・大正・昭和東京近代地図集成』(人文社 1981), 参考資料:【資料3】『東京市近傍郡部町村番地界入地図』明治四十四年(東京逓信管理局編 人文社 1986), 参考資料:【資料4】『垂直航空写真で見る首都東京』(メイト企画出版事業部 1981), 参考資料:【資料5】『空から東京』23区(西武新聞社 1994), 参考資料:【資料6】『ゼンリン住宅地図東京都荒川区』(ゼンリン 2020), 参考資料:【資料7】『荒川区』(日地出版 1967), 参考資料:【資料8】『昭和16年大東京35区内』30 荒川区詳細図(地形社編 昭和礼文社[200-]), 備考:2022年8月5日 追記 『発掘写真で訪ねる荒川区・足立区古地図散歩』(坂上正一著 フォト・パブリッシング 2022) 「2章 古地図で見る荒川区」のp.80~87「~日本の経済発展を象徴した隅田川貨物駅~ 南千住駅~隅田川」に詳細な説明と共に明治42年、大正10年、昭和32年、昭和62年の地図が記載されていた。

「往来物」とは何か。(足立区立中央図書館)

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辞典などから「鎌倉・室町時代から明治・大正期に至るまで、初等教育、特に手習所用に編集された教科書の総称(後略)」であることがわかる。 【資料2】【資料3】には「往来物」の写真が掲載されている。 回答プロセス:1 広辞苑にあたる p.371「往来物 鎌倉・室町時代から明治・大正期に至るまで、初等教育、特に手習所用に編集された教科書の総称(後略)」とあり。 2 国史大辞典にあたる p.489「(前略)往来とはそれらがもと往返一対の消息文を集めた消息文例集の形体を有していたことから名づけられた名称であるが、鎌倉時代中期以降には往々書簡に常用される単語・単文の類を集めたものをも往来と称するようになり、往来の語はそのままで初頭の教科書(読本であるとともに習字手本)を意味するようになった(後略)」とあり。 p.490「(前略)初等教育を所管分を通して行う伝統は一貫して、明治に西洋風の学校教育が行われるようになるまで存続したので、これら数多い往来物は、旧時代における日本の教育の、目的・内容・方法などを端的に示すものとして、教育史上もっとも重要な資料とされている。」とあり。 p.489からp.490にかけて「明衝往来」「庭訓往来」「商売往来」などの写真9枚あり。 3 百科事典にあたる 『日本大百科全書』25 索引p.125から3巻と6巻を見る。 【資料3】p.847「平安後期から明治初期にかけて用いられた初等教科書の総称。単に「往来」とも言う(後略)」とあり。カラー写真4枚あり。 【資料4】p.816教科書の項に「(前略)往来物とは、もともと書簡文の模範を示したものであるが、その後社会の変化とともに内容も変わり、教訓的なもの、産業的なもの、地域的なものに分かれ、とくに寺子屋を中心に用いられた(後略)」とあり。 他に確認した資料 『世界大百科事典』4 (平凡社 1988) 『万有百科大事典』5 日本歴史(小学館 1978) 参考資料:【資料1】『広辞苑』(新村出編 岩波書店 2018), 参考資料:【資料2】『国史大辞典』2(国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1980), 参考資料:【資料3】『日本大百科全書』3(小学館 1994), 参考資料:【資料4】『日本大百科全書』6(小学館 1994),

童謡「かごめかごめ」の歴史と作者を知りたい。(足立区立中央図書館)

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【資料1】【資料2】から江戸時代後期には現在とほぼ同じ歌詞での遊びが存在していたことや、小学校の音楽教材としてとりあげられたことなどがわかる。 また、わらべ歌が小学校の音楽教材になるきっかけについて記述のある【資料3】も紹介した。 作者についてわかる資料はなかった。 回答プロセス:1 参考図書にあたる 【資料1】 p.94「かごめ かごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀がすべった うしろの正面 だあれ」の歌詞あり。「解説」に「(前略)江戸後期にはすでにこの歌詞での遊びが存在していたことが明らかとなる(後略)」とあり。 p.95「(前略)歌詞の原型や成立年代、作者が特定できない情況下で(後略)」の記述あり。 『日本大百科全書』5(小学館 1994) p.119「かごめかごめ」遊びの起源について記述あり。作者についての記述なし。 『日本国語大辞典』3(小学館国語辞典編集部編 小学館 2001) p.540「かごめかごめ」遊び方とその起源について記述あり。作者についてはなし。 2【資料1】に掲載されている文献「柳田國男「『こども風土記』(1942年朝日新聞社)」と「尾原昭夫編『近世童謡童遊集』(1991年柳原書店)」をあたる。 『柳田國男全集』12(柳田國男著 筑摩書房 1998)「こども風土記」収録。作者について記述なし。 『日本わらべ歌全集』27(柳原書店 1991)「近世童謡童遊集」収録。 p.333 79「籠目かご目 籠ン中の鳥ハ、何時ゝ出やる、夜明けの晩に、鶴つツぺツた。」とあり。作者について記述なし。 3 江戸後期、あずま流行、東京風俗をキーワードが得られたので384.5の棚で直接探す。 【資料2】p.295~299「江戸から東京への「かごめかごめ」」に遊び方の変遷や籠の中の鳥と解釈されるようになる経緯などの記述あり。作者についての記述はなし。文政3年(1820)時代の歌詞が記載されていた。 4 音楽教育を調べる 『日本教科書体系』近代編25唱歌(講談社 1978)  p.1「唱歌 編集のことば」に明治前半期から国定期における第4期に至るまでを収録したとあったが、見つからなかった。 『昭和戦後音楽教育史』(木村信之著 音楽の友社 1993) p.230「教材の傾向と変化」(4)に「(前略)30年代になって日本音楽重視の思潮や、音楽教育の会などによるわらべ歌教育が実践され、教科書にも反映している」とあり。 【資料3】「3.音楽教育の出発点としての<わたべうた>教育」にわらべ歌を音楽教育に取り入れるまでについての記述あり。 5 足立区小学校採用の教科書で確認する。 平成4年度採用『おんがく』1(三善晃ほか著 教育出版 1991年) p.11にあり。作詞・作曲者は無く「わらべうた(関東地方)」とある。 平成8年『おんがく』1(三善晃ほか著 教育出版 1995) p.10にあり。平成4年度採用と同じ記述。 それ以前・以降の所蔵教科書には収録されていなかった。 他に記述のあった資料 『日本こどものあそび大図鑑』(笠間良彦著 遊子館 2005) 『絵でよむ江戸のくらし風俗大事典』(棚橋正弘編 柏書房 2004) 『日本民俗事典』(大塚民族学会編 弘文堂 1994) 『民俗学辞典』(柳田國男 東京堂出版 1951) 記述のなかった資料 『伝承遊び事典』(芸術教育研究所 黎明書房 1985) 参考資料:【資料1】『日本童謡事典』(上笙一郎編 東京堂出版 2005), 参考資料:【資料2】『江戸の子供遊び事典』(中田幸平著 八坂書房 2009), 参考資料:【資料3】『小学校音楽教育講座』2音楽教育の歴史(音楽之友社 1983),

「地所質入書入規則」の全文を本で見たい。(足立区立中央図書館)

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「地所質入書入規則」が掲載されていた【資料1】を紹介した。 回答プロセス:1『日本史大事典』3(平凡社 1993) p.859「地所質入書入規則」にある参考図書『日本資本主義の発達と私法』(福島正夫著 東京大学出版会 1988)を当館業務端末で検索するが区内所蔵なし。 2『国史大辞典』6(国史大事典編集委員会編 吉川弘文館 1985) p.783「地所質入書入規則」にある参考文献にあたる。『法令全書』内閣官報局編 明治6年」区内所蔵なし。福島正夫「財産法」(『講座日本近代法発達史』1所収)全文の記載なし。 3 土地担保金融に関する法令なので業務端末で<土地/法令>を検索。 【資料1】p.336「21 地所質入書入規則」に概説と法令が載っていた。 事前調査事項:『日本史大事典』「地所質入書入規則」項目のコピー 参考資料:【資料1】『近代土地所有権』(毛塚五郎編 日本加除出版 1986),

ユネスコ学習権宣言の1973年版と1994年版が見たい。(足立区立中央図書館)

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「ユネスコ学習権宣言」は1985年3月にパリで開かれた第4回ユネスコ成人教育国際会議で採択された宣言であり、1973年と1994年には宣言が出されていない。「ユネスコ学習権宣言」の全文は【資料2】【資料3】にあり。 1994年に出されている宣言は「ユネスコ公共図書館宣言」で、この宣言は1949年に発表され、1972年・1994年に改定されている。1994年版は【資料1】にあり。1972年版は【資料4】にあり。 回答プロセス:1 参考図書にあたる 【資料1】 p.549「ユネスコ学習権宣言(中略)正確には「第4回ユネスコ国際成人教育会議における『学習権』という名の宣言。」1985年3月29日、第4回ユネスコ国際成人教育会議(成人教育パリ会議)において発表された。(後略)」とあり。1973年、1994年に宣言が出されたという記述はない。 2 教育関係資料にあたる 【資料2】 p.564 ユネスコの主要報告書・勧告・宣言を見る。1.ユネスコ主催成人教育国際会議の解説には「第2次大戦後にユネスコが発足してからわずか4年ののち、1949年にデンマークのエルシノアで第1回の成人教育国際会議が開催された。その後、ほぼ10年の間隔を置きながら、1960年モントリオール、1972年東京、1985年にはパリで成人教育に関する国際会議が開かれている(後略)」とあり。1973年、1994年に会議が開かれたという記述なし。 p.567「第4回成人教育国際会議宣言」の全文の訳文があり。 【資料3】 p.804「ユネスコ「学習権」宣言(1985年3月29日第4回ユネスコ国際成人教育会議の宣言)」の全文の訳文あり。 3 インターネットで検索 <ユネスコ/宣言/1973/1994>で検索 文部科学省の「ユネスコ総会において採択された宣言等」のページには該当年の宣言なしhttps://www.mext.go.jp/unesco/009/1380063.htm(最終アクセス日2022年8月13日)  日本図書館協会の「ユネスコ公共図書館宣言 1994年採択 原文は英語」ありhttps://www.jla.or.jp/library/gudeline/tabid/237/Default.aspx(最終アクセス日2022年8月13日) 4 1994年に「ユネスコ公共図書館宣言」が出されているので、「ユネスコ公共図書館宣言」について調べる。 【資料1】 p.550「ユネスコ公共図書館宣言」の項に「(前略)国際図書年を記念して1972年、そして1994年に改定された(後略)」とあり。 p.594「ユネスコ公共図書館宣言1994年 1994年11月採択」の訳文あり。 【資料4】 p.1439~1441に訳文あり。「1972年IFLAブタペスト大会提出 原文はUnesco Bulletin for Libraries,vol.xxvi No.3 1972に公表」と記載あり。 「ユネスコ公共図書館宣言」について「レファレンス協同データベース」に事例ありhttps://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000154222 他にあたった資料 『ユネスコ学習権宣言と基本的人権』(藤田秀雄編 教育史料出版会 2001) 1985年の宣言についての記述あり。 『図書館情報学基礎資料』第3版(今まど子編 樹村房 2020)「ユネスコ公共図書館宣言 1994年」全文和訳p.63~p.65、原文p.66~68にあり。 『図書館情報学ハンドブック』(図書館情報学ハンドブック編集委員会編 丸善 1999) 『図書館法規基準総覧』(日本図書館協会編 日本図書館協会 2002) 参考資料:【資料1】『最新図書館用語大辞典』(図書館用語辞典編集委員会編 柏書房 2004), 参考資料:【資料2】『生涯学習事典』(日本生涯教育学会編 東京書籍 1992), 参考資料:【資料3】『現代教育学事典』(青木一編 労働旬報社 1988), 参考資料:【資料4】『図書館法規基準総覧』(日本図書館協会編 日本図書館協会 1992),

足立区にあったタバコ工場について知りたい。(足立区立中央図書館)

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タバコ工場の設立から廃止、その後倉庫から住宅団地になるまでの歴史や、製造していた銘柄などが【資料1】に詳しく記載されている。 【資料2】から、東京電機大学東京千住キャンパスがある北千住東口にタバコ工場があったことがわかった。 回答プロセス:1 区史にあたる 『新修足立区史』下(東京都足立区役所編 東京都足立区役所 1967)にはタバコ工場があったという記述なし。 2 当館図書館システムで検索する。 〈たばこ/589.8〉で検索し所蔵資料にあたる。 『日本たばこ産業』(三和良一著 山愛書院 2009)索引に「千住工場」あり。 p.102「1923(大正12)年に発生した関東大震災では(中略)震災後の区画整理地域となった蔵前工場は再建せず、本所と千住に新工場を建設することとして(後略)」とあり。 〈専売公社〉で検索し所蔵資料にあたる 【資料1】 p.22「分工場の設置」に千住分工場の記述あり。表1-2「浅草専売直営の分工場」には「千住分工場(南足立郡千住牛田町) 開設大正8年9月 廃止昭和5年11月」と記載されている。 p.45~48「4 北千住分工場の建設」所在地、面積、操業開始年月、製造銘柄、北千住工場廃止後についてなどの記述あり。「北千住分工場平面図」も載っている。 p.49~50「5 足立工場として再出発」足立工場についての記述あり。「足立工場平面図(昭和14年10月)」も載っている。 p.72「戦後の足立工場」には「24年6月1日(中略)日本専売公社が発足すると、足立工場は本社直轄工場となった。」とあり。「日本専売公社足立工場」の表札写真あり。 p.74「足立工場の廃止」に「昭和26年6月、約2年前から始まっていた業平工場の復旧工事が完成し、足立工場から業平工場への機械の移設が開始され、同年9月に完了、足立工場は廃止された。工場跡地は葉たばこ倉庫として使用されたが、建物が老朽化しており火災予防上危険があるため取り壊され、その跡地に職員住宅が建設されることとなった」とあり、工場跡地に立つ職員住宅団地の写真が載っている。 p.214「東京工場の沿革」あり。 p.255~292「年表」あり、 各工場で製造・中止した銘柄の記述(一部銘柄のカラー写真)あり。 年表では、p.271に「昭和14年(1939)10月 足立工場に診療所が設置」、p.282に「昭和36年(1961)9月 足立倉庫内敷地に共済アパート建設開始」、p.284に「昭和39年(1964)7月 足立倉庫敷地内職員「団地新築アパート完成」と記載あり。 3 足立区資料にあたる 『足立風土記稿』1地区編千住(足立区教育委員会文化課編 足立区教育委員会 2004) p.290「1937(昭和12)年の地形図をみると、ほぼ全域が都市化している。千住旭町には専売局の工場が建てられた。ここでは、葉巻・トルコロール巻・パイプ煙草などを製造していたが、51(昭和26)年6月に製造停止になり、倉庫その他に利用された。工場敷地の北部は足立税務署・足立労働基準監督署・日本たばこ産業足立営業署となっている。59(昭和34)年ごろから南部倉庫あとに職員住宅が建てられた(後略)」とあり。 【資料2】 p.198「(前略)平成25年に駅前交通広場が完成している。前年には東京電機大学東京千住キャンパスが開校(中略)東京電機大学東京千住キャンパスの広大な土地は、戦前期にたばこ工場「東京地方専売局足立工場」があったところだ。戦後、日本専売公社(現「JT」)に移管されたのち、工場は昭和26年に墨田区の業平工場へ移転、足立工場の跡地は社宅・倉庫として使用されていたものだった。」とあり。 p.199「北千住~牛田駅・京成関屋駅周辺(昭和62年)」地図の北千住駅東口に広がる一区画の北東に足立税務署あり。敷地内の南東には病院記号あり。区画内には15棟ほどの建造物あり。 p.197(昭和32年)地図の北千住駅東側に「専売公社倉庫」と書かれた区画あり。 p.195(大正10年)地図の北千住駅東南には煙突、工場、沼の地図記号がある一つの区画あり。 p.111駅ビル竣工直前の北千住駅付近の空撮写真(1985(昭和60)年3月13日撮影)あり。駅ビルの向こう側に6階建てなどの団地広がっているのがわかる。 4 現在の所在地を確認する 【資料3】p.56から南足立郡千住町大字千住1丁目牛田耕地は地番整理で昭和6年1月1日旭町となり、昭和7年10月1日東京市編入で千住旭町となっていた。 5 現在の千住旭町について調べる (1)当館図書館システムで検索する。 〈北千住駅/東口/再開発〉該当資料なし。 〈千住/旭町〉でヒットした所蔵資料にあたる。 『千住旭町会30年の軌跡』(岩城武著 岩城武 2013) p.354「旭町お知らせ版 No.244発行日平成24年4月17日」に「東京電機大学いよいよ開学(中略)町内にできた東京電機大学がいよいよ4月2日より開学いたしました」とあり。 (2)足立区ホームページで<北千住駅東口/再開発>検索。 平成20年6月24日の記者会見資料「JT社宅跡地に、東京電機大学が進出決定!」のPDFファイルあり。https://www.city.adachi.tokyo.jp/documents/2142/080624_interview_1.pdf"(最終アクセス日2022年9月11日) (3)広報誌で確認する。 【資料4】p.73 2008(平成20)年7月10日号1面に「北千住駅東口に東京電機大学進出が決まりました」の記事あり。JT社宅跡地1.9ヘクタールと記載あり。 参考資料:【資料1】『たばこと共に七十余年』(「工場史」編集委員会編 日本専売公社東京工場 1982), 参考資料:【資料2】『発掘写真で訪ねる荒川区・足立区古地図散歩』(坂上正一著 フォト・パブリッシング 2022), 参考資料:【資料3】『足立区町名のうつりかわり』(足立区役所区民部管理課編 東京都足立区役所 1982), 参考資料:【資料4】『あだち広報』平成20年4月~22年3月(足立区政策経営部広報室長付報道広報課編 足立区政策経営部広報室長付報道広報課 2001),

地震発生時に身を守るための行動を、シーン別に知りたい。以前はすぐに火を消すように言われてきたが今は揺れが収まってから消すように言われている理由も併せて知りたい。(足立区立中央図書館)

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【資料1】【資料2】【資料4】【資料5】には、地震発生時に身を守るための行動がそれぞれの場面毎に記載されていた。 発生時にすぐ火を消さない理由としては【資料1】と【資料3】では、やけどの危険や震度5程度の揺れを感知するとガスメーターが自動でガスをストップするマイコンメーターの設置が進んでいるという内容の記述があった。 回答プロセス:1 369.3の棚でブラウジングする 【資料1】「第4章 発災時のシュミレーション」では地震発生時の行動を3段階に分けて説明している。 p.224~229「1 発生直前・発生中(緊急地震速報~2分)身を守る行動が最優先」では「家の中にいる場合」「キッチンにいる」などの各場面別の説明があり。 「2 発生直後 2~5分後 落ち着いて状況を把握する」のp.231に「震度5程度の揺れを感知するとガスメーターが自動でガスをストップします(中略)やけどをする危険もあるので、火の元の確認は揺れがおさまってからが原則です」とあり。 「3 発生5分後以降」には「二次災害を防ぎながら避難・救助」(p.232)、「避難するときの注意点」(p.233)あり。 【資料2】 p.58「地震が発生したときは、どこにいても第一に、身の安全を図ること。「まずは低く、頭を守り、動かない」の3ステップを行います(後略)」とあり。 p.59に「揺れが収まったら火元を確認し、火の始末をする」とあるが理由は記載なし。 p.61「キッチンなら」に「落下物や店頭物が多く、室内危険度はトップクラス。火の元は無理して消さず、なるべくすぐ離れて身の安全を確保すること」とあり。 p.62「外出先で地震が起きたら」では6つのパターンの記述あり。 【資料3】p.106「可能であれば火の元を消す」では「緊急地震速報が鳴ったとき、「まだ揺れる前なら、可能であれば火を消しましょう」という話です。もし、調理中の場合は、キッチンは冷蔵庫や食器棚など凶器となるものが多い空間ですし、火傷の危険もありますので、すぐにその場を離れ、揺れが収まってから消しに行ってください。最近では、大揺れを感知すると自動的にガスの供給を遮断するガスマイコンメーターの設置が進んでいます(後略)」とあり。 【資料4】「こんなときに地震が起こったら?」p.4「街なかにいるとき」p.5「自宅にいるとき」「その他のシチュエーション」あり。 p.5の「キッチンにいたら」には「火を使っていたらただちに消す。食器棚から皿が飛び出してきたり、冷蔵庫が倒れて出入り口をふさいだりなど、キッチンは危険がいっぱい。すぐに離れて安全ゾーンへ」とあり。 【資料5】 p.18「発災直後の行動」に「火元を確認する 火を使っているときは揺れが収まってからあわてずに火の始末」とあり。 p.20「自宅に潜む危険」の「リビング・キッチン」に「(前略)キッチンの冷蔵庫や電子レンジなどの大きく重い家電、棚からの物の飛び出しなどにも注意が必要(中略)調理中の場合は、まずは身を守ることを最優先に考え、火の始末は揺れが収まった後にあわてずに行います」とあり。 p.26~p.37「外出先に潜む危機」は18種類のシーン別注意点あり。 p.38~p.39「発災時のNG行動」あり。 参考資料:【資料1】『新しい防災のきほん事典』(朝日新聞社 2021), 参考資料:【資料2】『シニアのための防災手帳』(産業編集センター 2019), 参考資料:【資料3】『いつ大災害が起きても家族で生き延びる』(小川光一著 輪にブックス 2016), 参考資料:【資料4】『女性のための防災Book』(マガジンハウス 2014), 参考資料:【資料5】『東京防災』足立1(東京都総務局総合防災部防災管理課編 東京都総務部総合防災部防災管理課 2015),

明治初期あたりに、現在の足立区綾瀬地域にあった上千葉について知りたい。区界の地域なので足立区にも資料があるのではないか。(足立区立中央図書館)

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足立区綾瀬地域の上千葉については、【資料1】から1968年(昭和43)4月1日の区界変更により葛飾区から足立区の綾瀬1丁目~3丁目に編入された地域がこれ以前には上千葉町の一部区域であったことがわかった。編入と同時に上千葉の町名ではなくなっている。編入当時の上千葉町の地番は記載があったが、編入以前の明治初期について記載がある足立区の資料は見つからなかった。 回答プロセス:1 上千葉の場所を確認する 『角川日本地名大辞典』13東京都(角川書店) p.215「〈葛飾区〉近世」に「(前略)村の北方、足立郡との境は古隅田川(こすみだがわ)と称する小河川がある(後略)」とあるが足立に上千葉があったのかは不明。 『明治前期・昭和前期 東京都市地図』(清水靖夫編 柏書房 1995) p.118~p.127で1880年(明治13)、1906年→1909年(明治39→明治42)、1937年(昭和12)の移り変わりが見られる。 2 足立区資料にあたる 【資料1】索引をみると「上千葉(葛飾区)p.105,120,175」「上千葉町(葛飾区)p.25,83,97,122」「上千葉村(葛飾郡)p.94,264」とあり、各ページにあたる。 p.105「土地区画整理の関係で一九六八年四月一日、葛飾区との間で区堺の変更があり、葛飾区上千葉の一部区域が足立区に編入され(後略)」とあり。 p.120「綾瀬土地区画整理によって(中略)葛飾区上千葉の一部は市街され(後略)」とあり。 p.175にも葛飾区上千葉の一部区域が足立区に編入との記述があった。 p.25に足立区と葛飾区の堺を新しくした水路とすることになり、葛飾区上千葉町の一部を足立区に、足立区の一部を葛飾区の編入したとの記述あり。またこの時、上千葉町の町名が綾瀬一丁目から三丁目の各町に編入されて消滅したとの記述があった。この時の関係資料としてp.23に「足立区の行政界(区界)変更略図」、p.24も「区界変更関係資料」があり、「区界変更関係資料」の資料F「東京と告示第1169号」には葛飾区上千葉町から足立区に編入した当時の番地と足立区から葛飾区に編入した当時の地番が記載があった。 p.83「葛飾区上千葉町の一部区域が住居表示によって新設された綾瀬一、ニ、三丁目の各町に編入」とあり。 p.97にも綾瀬一・ニ・三丁目に葛飾区上千葉の一部区域がから足立区に編入されたとあり、実施面積が0.030平方㎞という記載があった。実施面積は「区のお知らせ」(足立区四十三年4に号)による。 p.122綾瀬土地区画整理完成記念の「綾和之碑」についての記述があり、碑に書かれた沿革の中に葛飾区上千葉町という名がある。 p.94では『風土記』で普賢寺村についてに記されている内容に「古隅田川ヲ限リテ葛飾郡上千葉村」という記述があることが記載されていた。 p.264「普賢寺は旧上千葉村(現葛飾区東堀切三丁目)にある鎌倉時代以来の古刹である。」との記述あり。 『足立区のお知らせ縮刷版』昭和23年9月~昭和47年3月(足立区企画広報室編 足立区企画広報室 1972) p.394「昭和43年4月5日第194号」に「区画変更部分に住居表示」というタイトルで記事あり。また、新住居表実施区域の地図があり、新区と旧区の堺が書かれている。 他に見た資料 『帝都地形図集』第2集 (井口悦男編 之潮 2005) 『最新大東京全図』昭和22年(1947) 復刻古地図(人文社 2006) 『全住宅案内地図帳』昭和44年度版足立区(公共施設地図株式会社編 公共施設地図 1969) 『垂直航空写真で見る首都東京』(メイト企画出版事業部 1981) 『発掘写真で訪ねる荒川区・足立区古地図散歩』(坂上正一著 フォト・パブリッシング 2022) 『武蔵国・上総国 集成古地図』東京・近郊北東部河川、古道史料 明治19年・21年版迅速測図(足立史談会 2001) 事前調査事項:『葛飾区史』上巻(東京都葛飾区編 東京都葛飾区 1985)は見ている。 参考資料:【資料1】『足立風土記稿』地区編 6 綾瀬(足立区郷土博物館編 足立区教育委員会 1997), 備考:2022年10月30日 追記 明治初期ではありませんが、区堺がわかる資料として、下記の資料を確認しました。 『昭和十六年大東京三十五区内』31 足立区詳細図(地形社編 昭和礼文社[200-])と『昭和十六年大東京三十五区内』31 足立区詳細図(地形社編 昭和礼文社[200-])で昭和16年(1941)当時の区境がわかる。 『足立区』住居表示による新町名入 東京都区分詳細図 21(日地出版 1968)と『葛飾区』住居表示による新町名入 東京都区分詳細図 22(日地出版 1970)では昭和43年の区界変更後の区境がわかる。

北斎が描いた千住の浮世絵に描かれている場所が知りたい。その場所の地図と古地図が見たい。 知りたい浮世絵は2枚で、絵のタイトルは覚えていないが、特徴は「関屋宿の絵で、馬に乗った人と富士山が描かれている」ものと「千住の花街の絵で、遠景、風景画、川が描かれている」ものだった。(足立区立中央図書館)

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浮世絵の作品名は1枚目が「隅田川関屋の里」、2枚目は「従千住花街眺望ノ不二」 描かれている場所は【資料1】で確認できるが、「従千住花街眺望ノ不二」の場所については現在のどこであるかが特定できる資料は見つからなかった。 古地図は【資料3】を紹介する。 回答プロセス:1 インターネットでホームページを見る。 (1)足立区ホームページ (最終アクセス日2022年10月28日) <冨嶽三十六景/千住>を検索する。 「武州千住 冨嶽三十六景と千住」https://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/2015hugakubusyuusennjyu.html から質問の浮世絵2枚の作品名が「隅田川関屋の里」と「従千住花街眺望ノ不二」であることがわかる。また「従千住花街眺望ノ不二」については「現在では台東区域からの作品になりますが、描かれた当時は、荒川区分の小塚原・中村町の地域にあたっていたため「千住」と表記されています」とあった。江戸時代で千住宿といった場合、現在の荒川区小塚原、中村町のも含まれてたことがわかる説明あり。 「隅田川関屋の里 冨嶽三十六景」https://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/2017hugakusannjyuurokkei.html「隅田川関屋の里」に描かれた場所がどこかの記述あり。 「冨嶽三十六景のなかに3カ所も」https://www.city.adachi.tokyo.jp/hisho/ku/kucho/mainichi-20160322.htmlでは、作品が描かれたと思われる場所に、NPO法人千住文化普及会が顕彰碑を設置したとの記述があり。顕彰碑を設置した場所も記載されている。「従千住花街眺望ノ不二」については「現、南千住側の日光街道から新吉原遊郭を描いたもので(後略)」とあり。設置場所は描かれた場所ではない。関連リンクがあるが、ページは見つかりませんとなる。 (2)千住文化普及会のホームページ (最終アクセス日 2022年10月28日) 「仲町公園北斎顕彰碑」https://senjubunka.com/%E4%BB%B2%E7%94%BA%E5%85%AC%E5%9C%92%E5%8C%97%E6%96%8E%E9%A1%95%E5%BD%B0%E7%A2%91/ 顕彰碑写真、建立地、画題の対象地を示した地図あり。「従千住花街眺望ノ不二」の対象地は、顕彰碑のある橋戸町からは南方の東京メトロ日比谷線南千住駅の南側で三ノ輪駅の東側となる地域に、明治通りと土手通りを囲むような楕円で示してある。 2 NPO法人千住文化普及会の関係する資料がないか、自館端末で全項目〈NPO法人千住文化普及会〉と検索する。 【資料1】 p.23「隅田川関屋の里」千住仲町28付近とあり、p.24には「現在の千住仲町公園付近から西方向に向かって描いたという」との記述あり。 p.49「従千住花街眺望ノ不二」について「小塚原町、中村町付近から吉原を描いたものといわれている」とあり。p.12「千住八ヵ町」によると1660(万治3)年に小塚原町、中村町(現在の荒川区南千住)が千住宿に加えられたことがわかる。   3『浮世絵レファレンス事典』(日外アソシエーツ編 日外アソシエーツ 2010)p.373から「富嶽三十六景 従千住花街眺望ノ不二」の所蔵資料にあたる。 『秘蔵浮世絵大観』ベレス・コレクション(講談社 1991)図版のみ 『名品揃物浮世絵』8(ぎょうせい 1991)図版解説p.125「(前略)田圃うしろの塀をめぐらした屋敷は千住の岡場所(花街)である」とあり。描いた場所の記述なし。 『浮世絵八華』5(平凡社 1984)図版4の解説に「千住の遊郭を畑の後方にみながら、その後方に富士がのぞく(後略)」とあるが描いた場所の記述なし 『浮世絵大系』13別巻1(座右宝刊行会編 集英社 1975)p.119「千住大橋に向かって国元に帰る大名行列の一行が進んでいく。橋を渡ってしまえばそこから先は江戸の外(後略)」とあり。「江戸で官許を得た遊郭としては純然たる吉原遊郭のほかに、飯盛り女という名目で許された四宿の岡場所があった(中略)千住大橋の南のたもとで、日光街道を利用する(後略)」とあるが、描かれた場所の特定はされていない。 『在外秘宝』4 欧米収蔵浮世絵集成 葛飾北斎(楢崎宗重編 学研1972)図版のみ 3 参考図書にあたる 『浮世絵大事典』(国際浮世絵学会編 東京堂出版 2008)p.431「富嶽三十六景」描かれた場所の記述なし。この参考文献『絵本と浮世絵』鈴木重三著 美術出版社1979)にあたるが場所の記述なし。 4 足立区資料にあたる 【資料2】p.145「(前略)描写の場所は明らかでないが、荒川南岸の浅草通りであろうか」とあり。 『千住宿と足立』(勝山準四郎著 足立史談会 1981)p.112「(前略)伊達藩に限って、後年参勤交代にて帰国の際に大橋を渡る時、空鉄砲50発を打ちならす不思議な家例を認められている(後略)」とあるが場所は特定されていない。 他に見た資料 『北斎』浮世絵を読む4(浅野秀剛編 朝日新聞社 1998) 『北斎富嶽三十六景』(平凡社 1968) 『大千住マップ』(足立区観光交流協会 2022) 『新修荒川区史』上(荒川区役所編 荒川区役所 1955) 『台東区史』沿革編(東京都台東区役所編 東京都台東区役所 1966) 事前調査事項:足立区ホームページで「武州千住 冨嶽三十六景と千住」を見た。 参考資料:【資料1】『千住宿歴史ウォークガイドブック』2(千住文化普及会 2021), 参考資料:【資料2】『江戸四宿』(特別展江戸四宿実行委員会編 特別展江戸四宿実行委員会 1994), 参考資料:【資料3】『復元・江戸情報地図』(吉原健一郎/[ほか]編集・制作 朝日新聞社 1994),

1.確証バイアスについて知りたい。 2.確証バイアスを利用した「ウェイソン選択課題(問題)」を考案したピーター(又はペーター)・カスカート・ウィルソンの経歴を知りたい。(足立区立中央図書館)

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1.確証バイアスについて記述のあった【資料1】【資料2】【資料3】を提供した。 2.ピーター・カスカート・ウェイソンの経歴が詳しく載っている資料は見つからなかった。 回答プロセス:1.確証バイアスについて調べる (1)参考図書にあたる 『心理学辞典』(中島義明他編 有斐閣 1999) p.112「確証バイアス」あり。 『有斐閣現代心理学辞典』(有斐閣 2021) p.101「確証バイアス」あり。 『感情と思考の科学事典』(朝倉書店 2010) p.358「科学の創造」に「確証バイアス」あり。p.366「判断バイアス」に「確証バイアスとは(中略)ウェイソンが命名した。」とあり 【資料4】p.45「ルール学習と確証バイアス」にPeter.wasonが開発した課題(2-4-6問題)が確証バイアスを示すことを実証するために行われたという記述あり。 (2)自館図書館システムで検索 <確証/バイアス> 『決定力!』(チップ・ハース著 早川書房 2013)p.21「第二の罠 確証バイアス」の項あり。 <認知/バイアス> 『思考のトラップ』(デイヴィッド・マクレイニー著 二見書房 2014)p.53 確証バイアスあり。 『認知バイアス』ブルーバックス(鈴木宏明著 講談社 2020)「第4章 思考に潜むバイアス 確証バイアス」p.96「(前略)「演繹推論(4枚カード問題)、帰納推論(2-4-6課題)において確証バイアスが働き、それが非論理的な答えを導き出してしまう(後略)」とあり。 (3)書架で直接資料にあたる 【資料1】p.268「確証バイアスとは、自分がもっている仮説を確かめるときに、その仮説に合致する証拠を重視する傾向をいう」とあり。p.260「wason課題」にウェイソン(Wason,P.C)によって研究されたWason課題(4枚カード問題)について図を使った説明あり。 【資料2】p.101「4枚カード問題」の項にウェイソンが確証バイアスと呼ぶ経緯あり。 【資料3】p.166「2 確証バイアス」の項あり「2-4-6課題」を用いた研究例あり。 『自分では気づかないココロの盲点』完全版(池谷裕二著 講談社 2016)p.215「ケース56」が確証バイアスの例題となっている。 『基礎から学ぶ認知心理学』有斐閣ストゥディア(服部雅史著 有斐閣 2015)p.131に確証バイアスについてあり。 『認知心理学ハンドブック』有斐閣ブックス(日本認知心理学会編 有斐閣 2013)p.2「1-1 認知心理学の歴史」の「1970年以前-黎明期」に「(前略)確証バイアスという考え方で誤答特性を説明(後略)」とあり。 (4)レファレンス協同データベースで<確証バイアス>を検索 「認知バイアス」の事例が1件ヒット(近畿大学中央図書館 管理番号20151113-1https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000183717) この事例に紹介されている資料で当館に所蔵がある資料をあたる。 『行動経済学』(友野典夫著 光文社 2006)確証バイアスの記述はなし。p.48「論理的推論」に四枚のカード問題が簡潔に説明されている。 2.ピーター・カスカート・ウィルソンの経歴について調べる 確証バイアスを調べる中で【資料4】p.45から「Peter Wason」は英国の心理学者、p.47から「Wason,P .C.」【資料3】p.166から認知心理学者とわかる。名前は「ピーター・カスカート・ウィルソン」ではなく「ピーター・カスカート・ウェイソン」であると確認。 (1)インターネットで <ピーター/ウェイソン>を調べる 写真、ウェイソン選択課題についての記事は多数あるが経歴については見つけられなかった。 (2)事典にあたる 『西洋人物レファレンス事典』3-1 現代編 上(日外アソシエーツ 1984) 『西洋人物レファレンス事典』思想・哲学・歴史篇(日外アソシエーツ 2012) 『20世紀西洋人名事典』1(日外アソシエーツ編集部編 日外アソシエーツ 1995) 『外国人物レファレンス事典』4(日外アソシエーツ編集部編 日外アソシエーツ 2012) 『外国人物レファレンス事典』4(日外アソシエーツ編集部編 日外アソシエーツ 2020) 以上、すべて記述なし。 『人物文献目録』人名総索引1980-2019外国人編 日外アソシエーツ編 日外アソシエーツ 2020)p.67にウェイソン「'95-01」とあるが該当巻は当館所蔵無しにつき確認できず。 (3)データベースにあたる 「朝日クロスサーチ」「日経テレコン」とも見つからず。 (4)「心理学」「認知心理学」の資料にあたる 『現代心理学〈理論〉事典』(中島義明編 朝倉書店 2018) 『心理学事典』(平凡社 1981) 『岩波心理学小辞典』(宮城音弥編 岩波書店 1979) 『応用心理学事典』(日本応用心理学会編 丸善出版 2007) 『最新心理学事典』(平凡社 2013) 『誠信心理学事典』(下山晴彦編 誠信書房 2014) 『心理技術事典』(伊藤祐時編 朝倉書店 1977) 『社会心理学小辞典』(古畑和考編 有斐閣 2002) 以上、すべて記述なし。 事前調査事項:質問者によると、ピーター・カスカート・ウェイソンの生没年は1924年~2003(出典は不明) 参考資料:【資料1】『認知心理学』有斐閣アルマ(道又爾著 有斐閣 2011), 参考資料:【資料2】『朝倉心理学講座』2 認知心理学(朝倉書店 2005), 参考資料:【資料3】『心理学』(無藤隆著 有斐閣 2018), 参考資料:【資料4】『認知心理学事典』(M.W.アイゼンク編 新曜社 1998), 備考:2022年1月28日 追記 下記の資料も確認できました。 インターネット「Google」で<peter cathcart wason>と再検索したところ、英語版ウィキペディアがヒット。「Peter Cathcart Wason (22 April 1924 – 17 April 2003) was a cognitive psychologist at University College, London(後略)」とあり。(https://en.wikipedia.org/wiki/Peter_Cathcart_Wason 最終アクセス日2023年1月28日) 回答の公開については、依頼者本人の了承を得ています。

節分の由来や各地の珍しい節分行事を知りたい。(足立区立中央図書館)

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由来や地域の節分行事について記述のあった資料とWebマガジン「コロカル」の記事「このまちのくらしとけしき vol.020」を紹介 回答プロセス:1 節分の由来について調べる (1)386.1の棚でブラウジング 【資料1】p.55~57「2.節分」静岡県沼津市の行事についての記述もあり 【資料6】p.38~39「節分」 【資料7】p.32~33 節分についての記述あり (2)参考図書にあたる 【資料2】「節分」の項p.163~「やいかがし」「豆占」という節分の時に使う儀礼の説明もあり 『年中行事大辞典』(加藤友康編 吉川弘文館 2009)p.399「せつぶん」、p.648「まめまき」の項あり 巻末の「年中行事一覧」p.84「2月の行事」に節分の祭りなどの名称あり。それぞれのページにいくと解説あり 2 各地の節分行事について調べる (1)『年中行事大辞典』(再掲)p.648「まめまき」の項にあった参考文献を見る 【資料3】p.122「6 節分」行事の由来についての記述もあるが、佐渡・信濃・青森・三河などの地域で行っていることの記述あり (2)386.1の棚で「祭」「行事」の本にあたる 『祭りの事典』(佐藤和彦編 東京堂出版 2006)p.56「2月2日」に京都壬生寺と吉田神社で行われている節分の祭りの記述あり 【資料4】総論p.9「節分の豆撒き」行事の由来、長野県、福島県の節分行事について記述あり 付録「月別、全国の主なまつり」の「2月」に「成田山の節分会」と「長田神社追儺式」があり、成田山はp.94~95、長田神社はp.188~189に解説あり 【資料5】p.55~56に2月3日の祭りとして「長田神社追儺」(兵庫)「西円堂の鬼追い」(奈良)が載っている (3)参考図書にあたる 『日本の祭り文化事典』(東京書籍 2006)付録「祭り行事日一覧」で2月3日を見る p.942「吉田神社節分会」「能登のアマメハギ」「長田神社古式追儺式」がありそれぞれのページに解説あり (4)インターネットで検索する Googleで<日本各地の節分/行事><日本各地の節分/祭>と検索 ヒットした中から、マガジンハウスが発行しているWebマガジン「コロカル」の記事を見る。 「このまちのくらしとけしき vol.020」コロカルを見る(https://colocal.jp/topics/lifestyle/scenery/20200226_132424.html 最終アクセス日2023年1月29日) テーマが「わたしのまちの節分」となっていて、いくつかの地域について祭り・行事の記述あり。 参考資料:【資料1】『知っておきたい日本の年中行事』(福田アジオ著 吉川弘文館 2012), 参考資料:【資料2】『三省堂年中行事事典』(田中宣一編 三省堂 2012), 参考資料:【資料3】『月ごとの祭り』民族文芸双書(橋浦泰雄著 岩崎美術社 1985), 参考資料:【資料4】『47都道府県・伝統行事百科』(神崎宣武著 丸善出版 2012), 参考資料:【資料5】『日本の祭り事典』(田中義弘編 淡交社 1991), 参考資料:【資料6】『暮らしのしきたり十二か月』(神宮館編集部編 神宮館 2014), 参考資料:【資料7】『日本のしきたりがわかる本』(主婦と生活社 2008),

江戸時代にあったコミュニティについての詳細と実在していたかが知りたい。 以前「学習目的のコミュニティで複数同時に存在していた。そこには年齢や職業がバラバラな人たちが集まり、個人について詳しく深堀りせず、むしろ名前もコミュニティごとに変えていた」と人から聞いたことがある。(足立区立中央図書館)

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同好の士によって身分の別を超えてサークルが結成され、さまざまな活動を行った「連・社中」と呼ばれる集団があったことがわかり、これについて記述のあった【資料1】~【資料3】を紹介。 またインターネットの情報「家から連へ」公益財団法人花王芸術・科学財団と「江戸時代にもアバターが存在していた?かつての風習から学ぶ「生きやすさ」とは」ライフハッカー・ジャパンも紹介した。 回答プロセス:「コミュニティ」を「一定の地域に居住し、所属意識を持つ人々の集団。共同体」(『広辞苑』第7版(新村出編 岩波書店 2018)より)と捉えて調査をはじめる。 1 参考図書にあたる。 『日本史大事典』7 索引(平凡社 1994)の「五十音索引」で「学習」を引くと「学習塾」3-851上(私塾)に導かれる。 『日本史大事典』3 こ~し(平凡社 1993)で「私塾」を確認する。 p.850下段「私塾」で教育対象が成年であること、共同学習であること、学習内容や主な塾名がわかる。 【資料1】 p.460~「私塾と遊学」に「門弟の名前や入門年月日(中略)門人帳が作成された私塾が多く」とあり、「私塾」は質問内容には沿わないことがわかる。 p.470~「踊り・音曲 座敷の楽しみ」に「(前略)同好の士によって身分の別を超えてサークルが結成されさまざまな活動を行った。なかでも、江戸では狂歌、大坂では雑俳によって結ばれた連・社中が目を引く(後略)」の記述があり。 2 「連」「社中」について調べる (1)参考図書にあたる 『日本生活史辞典』(木村茂光編 吉川弘文館 2016)の索引から「連」(団体)は「朝顔」の項に導かれる。p.8「連と呼ばれる愛好家集団」という記述あり。索引に「社中」はなかった。 『江戸学事典』(西山松之助編 弘文堂 1984)p.357「千社札」の項から「連」という天保年間に納札交換会の好事家グループが生まれたことがわかる。p.489「狂歌摺物」の項に「連とか側と称する狂歌人グループ」とあり。p.534「茶番」の項には茶番師による連の組織が寛政年間につくられるようになったことがわかる。索引に「社中」なし。 (2)書架で直接資料を見る 『お江戸風流さんぽ道』(杉浦日向子編著 世界文化社 1998)p.67「喋りを楽しむ集まり続々誕生」に「(前略)言葉遊びは、湯屋の二階、髪結床の土間、私邸や料亭などで開かれる「~会」や「~連」などと呼ばれる定例の集まりの中で(後略)」とあり。 3 WEBで調べる Googleで<江戸時代/連>を検索。 田中優子氏の講演録PDF「家から連へ」公益財団法人花王芸術・科学財団(https://www.kao-foundation.or.jp/wp/wp-content/uploads/2019/02/family03_report.pdf 最終アクセス日2023/2/1)がヒット。 この講演は公開シンポジウム「これからの家族を考える」シリーズ第3回で行われたもので「連」についての記述がある。また連の特質を10項目列記してあり、この特質が質問内容と一致する。 この他、田中優子氏が語る「江戸時代にもアバターが存在していた?かつての風習から学ぶ「生きやすさ」とは」ライフハッカー・ジャパン(https://www.lifehacker.jp/article/mugendai-tanakayuko/最終アクセス日2023/2/1)もヒット。 「江戸時代の「サロン」ともいうべき「連」の存在。これは(中略)勉強会で庶民や武士など身分を超えて集まる組織だったそう」「参加者それぞれが本名とは違う名前を名乗る」といった記述があり。 4 田中優子氏の著作を図書館システムで検索する 【資料2】p.153~160「「座」と「講」と「連」と「社」」、p.160~168「貴族も武士も町人も歌に遊ぶ」に「連」についての記述あり。 【資料3】p.218~257「連は楽しいからみ合い」に「連」の意味、連の歴史について記載あり。 『江戸とアバター』(池上英子著 朝日新聞出版 2020)第3章「江戸のダイバーシティ」の中に「連」などについての記述あり。 記述の見あたらなかった資料 『国史大事典』15下索引事項(国史大事典編集委員会 吉川弘文館 1997) 『日本問答』(田中優子著 2017 岩波書店) 『グローバリゼーションの中の江戸』(田中優子著 岩波書店 2012) 『江戸への新視点』(高階秀爾編 新書館 2006) 参考資料:【資料1】『事典しらべる江戸時代』(林英夫編 柏書房 2001), 参考資料:【資料2】『江戸問答』(田中優子著 岩波書店 2021), 参考資料:【資料3】『大江戸ボランティア事情』(石川英輔著 講談社 1996), 備考:2022年2月2日 追記 下記の資料も確認できました。 東京都立中央図書館ホームページの「江戸東京デジタルミュージアム」の中に「「連」というサロンに集まる人々」(https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/bungei/page3-1.htmlhttps://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/bungei/page3-1.html 最終アクセス日2023/2/2)があり、「「連」とは俳諧を読むための場、そこに集まる人々のサロンを指しました。」との記述があった。

勝海舟の『氷川清話』に出てくる「稲妻の行く先見たり不破の関」は誰の句か。(足立区立中央図書館)

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句の作者がわかる資料は見つからなかった。 回答プロセス:1 『氷川清話』で確認する 『勝海舟全集』14(江藤淳編 勁草書房 1970)「わが文学批評」の「俳諧のはなし」p.162に質問の句あり。誰の句かは明記してないが、文脈から芭蕉の句と読み取れる。 2 Googleで<稲妻の行く先見たり不破の関>を検索する 同じ内容の質問が「Yahoo!知恵袋」にあり、回答のひとつに「文化デジタルライブラリー」のことが載っていたので見てみる。 「文化デジタルライブラリー」の「歌舞伎 鶴屋南北 作品紹介 浮世柄比翼稲妻」鑑賞のポイント1に「(前略)不破の「雲に稲妻」は京都の俳人・荷翠(かすい)の発句(ほっく)「稲妻のはじまり見たり不破の関」から考え出された図案でした(後略)」とあり(https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc15/sakuhin/p6/b.html 最終アクセス日 2023年3月1日) 『歌舞伎登場人物事典』(白水社 2006)にあたる。索引で「不破伴左衛門」からp.695「演出・扮装を見る。「(前略)荷翠の「稲妻のはじまり(後略)」あり。 3 勝海舟の資料にあたる 『それからの海舟』(半藤一利著 筑摩書房 2003)p.258「(前略)芭蕉を評して(中略)そのうえで、芭蕉の「稲妻の行先見たり不破の関」に張り合って(後略)」とあり。 4 芭蕉の句を確認する 『芭蕉全句』袖珍版(小学館 2004) 季語索引から「いなづま、稲妻」「不破の関」の句を見るが該当の句ではない。 『芭蕉辞典』(飯野哲二編 東京堂出版 1991)該当句なし 『芭蕉の花鳥風月』(田中正晴編著 近代文芸社 2004)該当句なし。 『新俳句大観』索引編(明治書院編集部編 明治書院 2006)該当句なし。 以上より「稲妻の行く先見たり不破の関」は芭蕉の句ではないとわかる。 5 書架で探す 『評解名句辞典』(麻生磯次著 創拓社 1990)p.31「稲妻」から始まる句に該当句なし。 『日本俳書大系』17(勝峰晋風著 日本図書センター 1995) 「芭蕉・蕪村・一茶全句索引」各索引「稲妻」から始まる句に該当句なし。 『連歌総目録』(連歌総目録編纂会編著 明治書院 1997)「発句索引」p.1292「稲妻」の句に該当句なし。 『日本古典文学大系』別巻2(岩波書店 1972)初句索引の「稲妻の始まり見たり」から『日本古典文学大系』98 歌舞伎十八番(岩波書店 1978)p.167に導かれる。「(前略)始まり見たり(後略)」の頭注二四に「荷翠(をだまき)」とあるが、「行先見たり」の句については記述なし。 他に見た資料 『日本の名著』32(中央公論社 1978) 『氷川清話』講談社学術文庫(勝海舟著 講談社 2000) 『元禄時代俳人大観』第3巻 索引・補遺(八木書店 2012)

足立区にお城はありましたか。(足立区立中央図書館)

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足立区には「中曽根城」あるいは「千葉城」と称されていた城があったことがわかりました。所在地は足立区本木2丁目です。 【資料1】~【資料5】に「城」について記述があります。 回答プロセス:1 図書館端末で<足立区/城>を検索。 【資料1】「例言」に「平成4年度以降、足立区本木2丁目に位置する中曽根城址(『東京都遺跡地図』1996年:足立区No25遺跡)で行った民間開発に伴う緊急発掘調査報告書」とあり。 【資料2】「第2章 足立の城・館」p.15「3 武蔵千葉氏の城 中曾根城」に中曽根城と中曽根城址について記載あり。p.82「付録 中曾根城址のイメージ図」あり。 【資料3】p.119「第3節 武蔵千葉氏本拠の発見」の「1 伝承の中の中曽根城」に「(前略)中曽根神社を中心に、従来から中世城郭跡の伝承があった。(中略)『新編武蔵風土記稿』本木村の項に小字中曽根に千葉某の城跡と伝えられる場所があり、六丁四方の外構えの堀と土塁の跡が残っていたと記述されている。城跡と伝えられる場所には、城の鎮守であった妙見社が建っているとも記している(現在の中曽根神社)(後略)」の記述あり。 2『東京都遺跡地図』にあたる 【資料4】目次「1 区市町村別遺跡と種別」足立区の項に「城 1」とあり。「足立区」p.182に「遺跡番号:25 遺跡名:中曽根城趾 所在地:本木2丁目 遺跡の概要:低地 城館 時代:中(鎌倉・室町・安土桃山時代) 文献:1(『新編武蔵風土記稿』)とあり。 『東京都遺跡地図』1996 1 遺跡分布図(東京都教育庁生涯学習部文化課編 東京都教育委員会 1996)地図26Rの本木2丁目に赤丸に囲まれた25番あり。 1988年版(東京都教育庁社会教育部文化課編 東京都教育庁社会教育部文化課)第3分冊p.82「遺跡一覧」では「名称:千葉城跡 所在地:本木2丁目中曽根神社付近(後略)」とあり。 『東京都遺跡地図』(東京都教育庁社会教育部文化課編 東京都教育庁社会教育部文化課 1974)には中曽根城趾・千葉城跡の記載なし。 3 『足立風土記稿』にあたる 【資料5】p.50「中曽根の城は淵江城」に「(前略)当時は特定の呼称はなかったようである。現在では城の中心部(主郭部分)がある小字名を取って「中曽根城」あるいは千葉氏の居住した城であったことから「千葉城」とも称されている」とあり。p.248「武蔵千葉氏の守護神・妙見社」に「(前略)中曽根神社の位置は、城の主郭(中心部)付近と考えられ(後略)」とあり。 他に見た資料 『足立区小台宮城の歴史』(高梨輝憲著 高梨輝憲 1969) 参考資料:【資料1】『東京都足立区中曽根城址』(足立区地域のちから推進部地域文化課 2020), 参考資料:【資料2】『戦国足立の三国志』(足立区郷土博物館 2019), 参考資料:【資料3】『戦国期東武蔵の戦乱と信仰』(加増啓二著 岩田書院 2013), 参考資料:【資料4】『東京都遺跡地図』1996 2 遺跡・文献(東京都教育庁生涯学習部文化課編 東京都教育委員会 1996), 参考資料:【資料5】『足立風土記稿』地区編2西新井(足立区郷土博物館変 足立区教育委員会 1999),

明治43年の「荒川洪水」の資料が見たい。(足立区立中央図書館)

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「明治43年の水害」「明治43年大水害」「明治43年の大洪水」など、名称はそれぞれだったが、【資料1~7】に明治43年の荒川洪水についての記述があることが確認できた。 回答プロセス:1 足立区史にあたる 【資料1】 p.1048に「明治43年8月10日(1910年)連日大雨 水災」との記述あり。 p.1055~1056「明治43年の水害」では、「(前略)この年の大洪水は利根川、荒川の氾濫が最も大きく影響した」とあり、各地の増水量や、堤防決壊状況などが記載されている。埼玉県熊谷町(現在熊谷市)佐谷田と南足立郡千住大橋における荒川出水水量の比較表、表の備考(1)に荒川堤満水までの水高の詳細もあり。 2 図書館システムで〈明治/水害〉を検索し以下の資料にあたる 【資料2】明治43年に東京の下町を襲った大水害の体験談が掲載されている。また足立および下流域の古老の話が多数載っている。p.2~3には明治43年大洪水の写真あり。 【資料3】p.115からの「第6章 明治43年大水害」では埼玉県内の利根川中条堤決壊の詳細とともに荒川沿い地域の被災状況の詳細あり。 p.203からの「参考資料①荒川の出水特性と明治四十三年出水」には埼玉県内の荒川上流部・中流部の詳細な状況の記述や「山地崩壊箇所数」の表、堤防決壊箇所を示した地図4枚あり。 【資料4】草加市が明治四十三年の水害を体験した市民対象に聞き取り調査などを実施してまとめた報告書で、草加地域の水害の状況などが掲載されている。p.9の「表3 府県別被災状況(東京市『東京市史稿』変災編より)から埼玉県内の被災数が他の府県より多いことがわかる。 【資料5】p.5には明治43年(1910)8月9日と10日の「中央気象台天気図(複製)」あり。 p.10~21「石に刻まれた水害の証」には近県各地に建立されている碑の写真と解説あり、p.24~p.31には被災写真が64枚掲載されている。付録で「一府五県水害地図」(明治43年10月3日発行)の複製地図あり。 3 書架をブラウジング 『荒川新発見』(東京新聞「荒川」取材班/著 東京新聞出版局 2002)「大洪水に衝撃 放水路開削へ」p.127に明治43年の水害についての記述あり。 【資料6】p.34~p.48「2 明治43年の大洪水」に詳しい記述あり。 4 『東京市史稿』にあたる 『事項別目次索引』の事項p.949から「明治43年大水災」は「変災3-455」に導かれる。 『東京市史稿』変災編第3にp.455「明治43年大水災」に「(前略)市内の諸川氾濫し就中荒川利根川の出水甚しく堤防決壊し市中に浸水し(後略)」、「自8月1日至16日雨量配布之図 明治43年8月洪水報告(埼玉県熊谷測候所)所蔵」とあり。折込には8月10日午前6時の天気図あり。他にも各区の被災状況、交通機関などの公共インフラの被災状況、救護の様子あり。応急措置や善後策についても詳細があった。 参考資料:【資料1】『新修足立区史』下(東京都足立区役所編 東京都足立区役所 1967), 参考資料:【資料2】『古老が語る明治43年の下町の大水害』(岡崎征男編著 下町タイムズ社 1995), 参考資料:【資料3】『水と闘う地域と人々』利根川・中条堤と明治43年大水害(松浦茂樹著 武蔵文化研究会 2014), 参考資料:【資料4】『明治43年水害調査報告書』(日本河川開発調査会編 草加市 1988), 参考資料:【資料5】『天明以来ノ大惨事』(北区飛鳥山博物館編 北区教育委員会 2011), 参考資料:【資料6】『荒川放水路物語』(絹田幸恵著 新草出版 1990), 参考資料:【資料7】『東京市史稿』変災編第3(東京市役所編 臨川書店 1974),

日暮里舎人ライナーの計画や建設に関する資料を見たい。(足立区立中央図書館)

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計画から事業の完成までの、事業の仕組み、許認可手続き、設計・工事等の一切をまとめてある【資料1】、足立区西北部の住民による地下鉄誘致の運動が新交通システムの導入に至った経緯がわかる【資料2】、基礎調査報告書の【資料3】【資料4】【資料5】を紹介した。 回答プロセス:1 図書館システムで<日暮里舎人>を検索し、以下の資料にあたる 【資料1】「発刊にあたって」に、この本は計画から事業の完成までを、事業の仕組み、許認可手続き、設計・工事等、新交通のいっさいをとりまとめたものとあり。終点駅の見沼代親水公園駅が都心から約15㎞の位置にあることがわかる図や駅間距離を示した地図と高架の高さと地形の高低差がわかる断面図などが掲載されている。また開業日が平成20年3月30日(日)とわかる。 【資料2】「第1章 住民運動と役所の連携」からは「足立の交通過疎地解消のために都心部と足立区西部を結んでいる放射11号線道路(尾久橋通り)の下に地下鉄を誘致するべきであると主張」していた小金井俊輔氏の提言が、次第に足立区・荒川区の動きとなっていった様子について記述している。「第4章 着々と進めて、さあ開業」には荒川区内で日暮里・舎人新線の「地上高架反対・地下化運動」があったこと、日暮里駅前再開発事業に荒川区が多大な苦労をしたことの記述あり。p.205~210は路線名、駅名決定までの経緯、p.236~238には作業員2名が死亡したそれぞれの事故についての記述あり。 『日暮里・舎人線の計画について』(東京都都市計画局施設計画部交通企画課 1994)に載っている「日暮里舎人線計画概要図」は【資料1】の「日暮里・舎人ライナーの路線概要」と同じ図を拡大したもの。 【資料3】「第4章 ルート素案」p.47に「舎人地区を起点とするルート素案を選定する」と明記されている。 【資料4】p.79~88に日暮里案での路線検討、事業採算性あり。図1-2「日暮里案路線計画図」あり。 【資料5】「第5章 ルート素案の設定」5-1に「本調査における路線導入レベルは新都市交通システム等の導入を想定して実施するもので、その導入空間は道路上の高架に求めるものとして検討する」とあり。「参考」5-21~5-27には、新交通システムの渡河部を中心とする一部区間を地下に確保する案に関する検討結果あり。「参考 表-1 高架案と地下案の建設費比較」では東側高架案合計210億円、地下案合計426億円とわかる。 参考資料:【資料1】『新交通システム建設物語』(「新交通システム建設物語」執筆委員会編著 成山堂書店 2011), 参考資料:【資料2】『日暮里・舎人ライナー秘話』(三原將嗣著 産経新聞出版 2011), 参考資料:【資料3】『日暮里-舎人間新交通システム等基礎調査報告書』昭和60年度(都市計画協会 1986), 参考資料:【資料4】『日暮里-舎人間新交通システム等基礎調査報告書』昭和61年度(東京都都市計画局 1987), 参考資料:【資料5】『日暮里-舎人間新交通システム等基礎調査報告書』昭和62年度(東京都都市計画局 1988),

千住地区の過去100年分の地図が見たい。(足立区立中央図書館)

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1923年(大正12)以降の地図が見られる資料として【資料1】から【資料8】とゼンリン住宅地図を紹介。 回答プロセス:当館で所蔵している1923年(大正12)以降の地図のうち、千住地区が収録されている地図 『明治・大正・昭和東京1万分1地形図集成』p.25「大正14年部分修正 千住」p.55「昭和12年修正測図 千住」 『明治前期・昭和前期東京都市地図』1 東京東部 p.182「西新井・上野」1937年(昭和12)、 p.184「西新井・上野」1945年(昭和20)、p.186「西新井・上野」1957→1958年(昭和32→33年) 『昭和16年大東京35区内』31足立区詳細図 昭和16年(1941) 『コンサイス東京都35区区分地図帖』25足立区 昭和21年(1946)9月発行復刻 『戦災復興期 東京1万分1地形図集成』p.13「千住」昭和22年(1947) 『全住宅地図帳 足立区』昭和44年度版 『航空住宅地図帳 足立区』昭和49年度版 『航空住宅地図帳 足立区』昭和52年度 『ゼンリン住宅地図東京都足立区』1980(昭和55)~2022(令和4) 参考資料:【資料1】『明治・大正・昭和東京1万分1地形図集成』(柏書房 1983), 参考資料:【資料2】『明治前期・昭和前期東京都市地図』1 東京東部(清水靖夫編 柏書房 1995), 参考資料:【資料3】『昭和16年大東京35区内』31足立区詳細図(地形社編 昭和礼文社 出版年不明), 参考資料:【資料4】『コンサイス東京都35区区分地図帖』25足立区(日地出版 1985), 参考資料:【資料5】『戦災復興期 東京1万分1地形図集成』(地図資料編纂会 柏書房 1988), 参考資料:【資料6】『全住宅地図帳 足立区』昭和44年度版(公共施設地図航空編 公共施設地図航空 1969), 参考資料:【資料7】『航空住宅地図帳 足立区』昭和49年度版(公共施設地図航空編 公共施設地図航空 1974), 参考資料:【資料8】『航空住宅地図帳 足立区』昭和52年度(公共施設地図航空編 公共施設地図航空 1977),

カカオバターの成分が載っている資料を見たい。カカオバターにはタンパク質が含まれているのか知りたい。(足立区立中央図書館)

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所蔵する資料で、カカオバター(ココアバター)にタンパク質が含まれているか確認できる資料は無かった。 米国農務省のデータベース「FoodDataCentral」では、ココアバターがあり、成分を見ることができる。 回答プロセス:1 参考図書にあたる 『世界薬用植物百科事典』(アンドリュー・シュバリエ原著 難波恒夫監訳 誠文堂新光社 2000)p.274「カカオノキ」にカカオバターについて記述はあったが、成分についての記載なし。 『メディカルハーブ安全性ハンドブック』第2版(AHPA編著 東京堂出版 2016)カカオバターの記載なし。 『洋菓子百科事典』(吉田菊次郎著 白水社 2016)p.66「カカオバター」大きく分けて4つの結晶型を持つこととそれぞれの融点が異なることなどの説明あり。成分については記載なし。 『料理食材大辞典』(主婦の友社編 主婦の友社 1996)p.138「カカオし(カカオ脂)」に食用脂の一種、カカオバターのこととあった。主な脂肪酸については載っていたが、タンパク質については記述なし。 『食品図鑑』(女子栄養大学出版部 1995)p.64「植物油脂」の特性を説明した文章の中に「カカオ脂」が出てくる。p.65に植物脂の成分表が掲載されている。 『オックスフォード食品・栄養学辞典』(Arnold E.Bender著, David A.Bender著, 五十嵐 脩監訳 朝倉書店 2002)p.53「カカオバター」→ココアバターとあり、p.114「ココアバター」を見る。成分表などはなし、タンパク質についての記述もなし。 『日本大百科全書』4 2版(小学館 1994)p.791「カカオ」に「カカオバターはまた化粧品、香料、医薬品の原料にも用いる」との記述はあり。 2 498.5、499.8の棚をブラウジング 『メディアカルハーブ事典』(レベッカ・ジョンソン著 日経ナショナルジオグラフィック社 2014)索引p.376「カカオ→チョコレート」に導かれる。p.108「カカオ(チョコレート)」からチョコレートを作る過程でココアバターが搾油されることがわかるが、成分表はない。 『アロマセラピーとマッサージのためのキャリアオイル事典』(レン・プライス著 東京堂出版 2001)「ココアバター」p.103に「主な成分構成」があるがタンパク質についての記載はなし。 3 自館の図書館システムで〈油脂〉を検索し資料にあたる 『油脂の科学』(戸谷洋一郎著 朝倉書店 2015)p.142「ココアバター」の項に成分表なし。 『食用油脂』(藤田哲著 幸書房 2011)p.112~117「13.ココアバター(カカオ脂)とその他製菓用油脂」にココアバターの特徴や脂肪酸組成などの表あり。タンパク質の記述はなかった。 4 Googleで検索 〈カカオバター/成分〉〈ココアバター/成分〉〈ココアバター/タンパク質〉で検索する。 「ウィキペディア」の「ココアバター」がヒット。100gあたりの栄養価が載っていて、タンパク質は0gとなっている。この出典が「USDA栄養データベース」とあるので、このデータベースを確認する。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B3%E3%82%A2%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%BC 最終アクセス日2023年5月26日) 「FoodData Central」USDA(https://fdc.nal.usda.gov/index.html 最終アクセス日2023年5月26日)で食品検索のページから「SRレガシーフード」のタブを選択し、SRレガシーフード検索オプション「SR食品カテゴリー」で「油脂」を選択し、検索結果からNDB番号4501「オイル、ココアバター」の「栄養素」に「蛋白質0g」とあり。 日本チョコレート・ココア協会ホームページの「健康講座」(http://www.chocolate-cocoa.com/lecture/ 最終アクセス日2023年5月27日)では「Q16チョコレート・ココアを食べると太りますか?」にココアバターについての記述があったが、タンパク質についての記述はなかった。 株式会社明治ホームページ「健康効果」(https://www.meiji.co.jp/hello-chocolate/health/ 最終アクセス日2023年5月27日)にココアバターについての記述あり、タンパク質についての記述はなかった。 他に見た資料 『アロマセラピーのための精油ハンドブック』(日本アロマセラピー学会編 丸善出版 2016) 『アロマテラピー・バイブル』(塩屋紹子監修 成美堂出版 2005) 『エッセンシャルオイル&ハーブウォーター 375』(シニー・ローズ著 BABジャパン出版局 2004) 『アロマテラピー検定テキスト』1 (鳥居鎮夫監修 日本アロマ環境協会 2005) 『からだによいオイル』(井上活義著 慶応義塾大学出版会 2016) 『ベジタブルオイルの本』(ティータイム・ブックス編集部編 昌文堂 1998) 『あぶら(油脂)の話』(藤谷健著 裳華堂 1996) 『美容と健康のための植物オイル・ハンドブック』(シャンタル・クレルジョウ著 東京堂出版 2012) 『日本食品大事典』(平宏和編 医歯薬出版 2022) 『食品大百科事典』(食品総合研究所編集 2002) 事前調査事項:『八訂食品成分表』(香川明夫監修 女子栄養大学出版部 2022)と『早わかり目でみる食品&食材成分事典』(主婦の友社編 主婦の友社 2016)にはカカオバターの記載はなかった。

区歌「わがまち足立」の楽譜と歌詞が見たい。(足立区立中央図書館)

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楽譜の記載のある資料は【資料1】のみ。歌詞も記載されていたのでこちらを紹介した。 回答プロセス:1 足立区ホームページで<区歌>を検索 「足立区の歌「わがまち足立」のご紹介」のページがヒット。(公開日2012年8月1日) 区制50周年記念事業として作成されたことがわかる。区政50周年は1982年(昭和57年)。 橋本完寿郎作詞、團伊玖磨補作詞、團伊玖磨作曲。第1番から第3番までの歌詞の紹介で楽譜はない。曲が流れたり、聞けるようなことはない。(https://www.city.adachi.tokyo.jp/hodo/ku/aramashi/profile/uta.html 最終アクセス日2023年5月20日) 2 足立区資料を見る。 足立区発行の『行政サービス案内』(発行中)と『わたしの便利帳』(隔年発行 平成25年各戸配布終了)を降順で確認する。 楽譜・歌詞とも記載のあった資料 『わたしの便利帳』平成12年11月発行p.109 歌詞の記載があった資料と記載ページ  『わたしの便利帳』2007-2009版(2007)の表紙裏          平成17年3月発行(2005)p.4          平成10・11年度版(1998)p.100 『リブインわたしの便利帳』'96(1996)p.99              '94(1994)p.96              '92(1992)p.109              '90(1990)p.90              '88(1998)p.7 『くらしの便利帳』'86(1986)p.52             記載のなかった資料  『足立区行政サービス案内』の平成30年度から令和4年度までの各冊。 『わたしの便利帳』2010-2012暫定版(2010) 『わたしの便利帳』平成13年3月(2003) 参考資料:【資料1】『わたしの便利帳』平成12年11月発行(足立区企画部広報課企画編集 足立区 2000年), 備考:『足立区例規集』令和4年5月第1巻(足立区総務部総務課編 足立区 2022)p.12「区の歌」あり。「平成4年10月1日告示第281号 区の歌を次のとおり定める。」とあり、歌詞・楽譜が1から3まで記載されていた。足立区公式ホームページでも見ることができた。(https://en3-jg.d1-law.com/adachi/d1w_reiki/H404902500281/H404902500281.html 最終アクセス日2023年6月2日)
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