『天莫空勾践 時非無笵蠡』 鎌倉時代最末期の元弘二年(1332)三月、児島高徳は隠岐へ流される途中の後醍醐天皇を奪回しようと、その跡を追ったが果せず、せめて志だけでも伝えようと、天皇の宿所に忍び込んで、庭の桜樹の幹を削って中国越王勾践 [えつおうこうせん]の故事に因んだ十字の詩を書いたという。この話は院庄の忠臣児島高徳の故事として知られ、すでに江戸時代の貞享五年(1688)には、津山森藩の家老で「作陽誌」を編纂した長尾勝明がこれを顕彰して「院庄胎文」[いんのしょうのこしぶみ]を著している。 児島高徳は不思議な人物である。「太平記」にはしばしば名前が見えるのに、他の資料にその名を見ることがない。このため、児島高徳は「太平記」の著者とされる小島法師と 同一人ではないかという説がある。 児島高徳の名は「太平記」(全四十巻)の巻四から巻三十一、元弘二年 (1332)から観応三年(1352)までの二十年間の記事に見える。 高徳は和田備後守範長の子で、「太平記」の中では、児島備後三郎高徳、小島備後三郎、児島三郎高徳、児島備後守高徳、三宅三郎高徳、今木三郎高徳など、さまざまに記され、最後は出家したのか、児島三郎入道志純と名乗って終わる。 「太平記」では、今木・大富・和田氏を近辺の親類といい、「小島ト河野トハ一族ニテ」という。また、巻十七「江州軍事」に児島・今木・大富が兵船を揃えて上洛する 記事が見えることから、高徳は和田・今木・大富氏や伊予の河野水軍とも同族関係にあり、瀬戸内海に足がかりを持っていたと考えられる。大富・今木氏は豊原荘(邑久郡)の地頭であった。 ところで、高徳の行動には一定のパターンがあることが指摘されている。 単独か少人数での行動が多く、偵察・撹乱・連絡などがその任務であったように見えることである。その意味で注目されるのは、巻二十四の「三宅・荻野謀反事」での高徳の動きである。 児島に隠れていた高徳は将軍らを暗殺しようと海路京都に上り、廻状を回して味方を集め、四条壬生 [みぶ]の宿に隠れて機会をうかがう。 この時、高徳の配下にいたのは「究竟[くっきょう]ノ忍ビ」であり、彼らは「元来死生不知者共」であった。これは高徳が忍びの統率者であったことを思わせるが、高徳の拠点が児島にあり、児島が五流山伏の本拠であったことを考えると、高徳は修験道に関係した人物であったことが推測されるのである。 倒幕の過程で、後醍醐天皇方に付いた備作地方の多くの武士が南北朝の内乱期に北朝側に転じて生き延びたのに対し、一貫して南朝方にいた児島・今木・大富・和田氏は早く歴史の舞台から姿を消していった。 児島高徳について書かれた図書は多い。一々はあげないが、このうち、特に、「太平記」以外の周辺史料を駆使して児島高徳を実在の人物とした藤井駿の論文集 「吉備地方史の研究」や高徳の行動パターンを指摘した「津山市史第二巻 中世」は必読の書であろう。
参考資料:岡山県総合文化センターニュースNo.411 http://www.libnet.pref.okayama.jp/center_news/news411.pdf,
備考:M2004102615344343220
↧