山崎家盛は近江国に生まれた。父山崎片家は織田信長、豊臣秀吉に仕え、天正10年(1582年)の冬、 近江国から摂津三田に移って2万3千石を領有した。 天正19年(1591年)家盛は父片家の遺領を継いだ。文禄元年(1592年)家盛は豊臣秀吉の朝鮮出兵の 際に対馬国に渡り、2年間輸送、警固の任務を果たした。この間に嗣子山崎家治が対馬国で誕生する。 家盛は豊臣秀吉の死後、秀吉の子豊臣秀頼に仕えた。慶長5年(1600年)徳川家康が諸将を率いて上 杉景勝征伐のために関東へ下向した際に石田三成らが大坂において徳川家康に反旗を翻す。この時諸将 の妻子は人質として大坂城へ入るように命ぜられたが、池田輝政室(徳川家康の娘富子)はこれに従わ ず、家盛の屋敷へひそかに逃れた。これは家盛の正室が池田輝政の妹だったためだといわれている。し かし池田輝政の屋敷へ入って正室を捜すようにと命令が出ていたため、家盛は輝政の屋敷が狼藉にあう ことを危惧して、輝政の正室を屋敷へ戻し、その上で家盛は豊臣の家臣長束正家に会って輝政の正室が 重病なので回復するまで大坂城へ入ることを待って欲しいと交渉し、成功している。一説には家盛の居 城三田城へ輝政の正室及びその子を逃がしたといわれている。 家盛は石田三成に応じる一方で徳川家康に大坂の状況を知らせており、家康の娘つまり輝政の正室の 安全を確保したことにより大いに信頼されたと考えられる。関ヶ原の戦いの後、加増されて因幡国若桜 城へ移る。 家盛の正室(池田輝政の妹)は天球院と呼ばれた。妙心寺の塔頭に天球院があるがこれは彼女のため に池田光政が創建したものであると伝えられている。 家盛の子家治は慶長19年(1614年)、家督を継いだ。家治は大坂の役の際には徳川方につき、元和3 年(1617年)、備中国成羽へ入った。 家治は浅口郡内にも知行地を持っており、西阿知新田・北面新田の開発を行った。寛永15年(1638年) 島原の乱後まもない肥後国天草の富岡城へ入る。この時1万石加増され、4万石を領有した。天草の統 治は困難なものであったと考えられるが成果を上げて、寛永18年(1641年)讃岐国丸亀へ移る。丸亀城 を修築し、5万石を領有した。しかし家治の嫡子俊家の子治頼早世によって断絶となる。山崎氏の家名 は俊家の弟豊治が備中国川上郡成羽5千石の領主となって存続することになる。 【参考文献】 「成羽町史 通史編」(H8) 「増補妙心寺史」(川上孤山著 思文閣) 「備中成羽藩史料」(岡山県地方史研究連絡協議会 S41) 「新訂寛政重修諸家譜 第七」(続群書類従完成会 S40) 「川上町史」(H6) 「池田家履歴略記 上巻」(日本文教出版 S38) 「成羽町の文化財」(成羽町文化財専門委員会 S60)
参考資料:「岡山県総合文化センターニュース」№437号、H15年1月 http://www.libnet.pref.okayama.jp/center_news/news437.pdf
「成羽町史 通史編」(平成8年)
川上孤山著「増補妙心寺史」(思文閣,昭和59年)
「備中成羽藩史料」(岡山県地方史研究連絡協議会,昭和41年)
「新訂寛政重修諸家譜 第七」(続群書類従完成会,昭和40年)
「川上町史」(平成6年)
「池田家履歴略記 上巻」(日本文教出版,昭和38年)
「成羽町の文化財」(成羽町文化財専門委員会,昭和60年),
備考:M2004102614102843196
↧