三浦家は明和元年(1764年)に、三河国西尾から美作国勝山に転封している。この勝山藩の初代 藩主が三浦明次である。 三浦家は桓武平氏三浦義明の子孫で、室町時代に勝山に高田城を築いた三浦貞宗とは同祖異系で ある。 三浦家は正次の代に大名となり、正次から数えて六代目が明次になる。 三浦正次は、母が幕府の老中となった土井利勝の妹であったことと土井利勝のもとで暮らしてい たこともあって徳川家康の仰せによって三浦を改め、土井と称し、土井甚太郎と名のっていた。そ の後、徳川秀忠の仰せによって土井を改め、三浦に復した。元和9年(1623年)6月、正次は徳川 家光に供奉して京へおもむき、従五位下志摩守となり、家光の仰せによって姓を平から源に変えて いる。三浦家は元来平姓であるから、源姓に変えたということが正次の徳川秀忠落胤説の一因と なっていると考えられる。 正次は寛永10年(1633年)に松平伊豆守信綱・阿部豊後守忠秋・堀田加賀守正盛・太田備中守資 宗・阿部対馬守重次と共に徳川家光の許で「六人衆」の一員となる。この「六人衆」が「若年寄」 の起源とされる。 寛永14年(1637年)の島原の乱の際には、家光の上意を伝えるために肥前国へおもむき、鍋島家 に原城攻撃の抜掛けの秘策を授けたと伝えられる。鍋島家は、正次の恩に対して天満宮神像を贈り、 さらに明次の勝山転封、勝山城新築の時に黄金1万両の借金を申し込んだところ、無期限無利子で 融通したといわれる。 また、三浦明敬は鍋島光茂の養女を正室に迎え、三浦明喬は鍋島吉茂の養女を正室にしている。 三浦誠次にも鍋島斉直から正室が入っている。 正次は上総・下総・上野に1万5千石の領地を与えられ、さらに1万石を加増され、下野国壬生 城主となった。安次を経て明敬の時に日向国延岡城へ移り、その後三河国苅屋城へ入った。明喬を 経て義理の時に苅屋城から三河国西尾城へ移った。転封を経験した明敬、義理はいずれも「若年寄」 に就任しており、幕府の要職を務めた。 明次は明喬の三男で、兄、義理の養子となって跡を継いだ。明次の時に転封となって勝山に移る が、高田の地名を勝山に改め、新城を築くことになる。この時将軍家から金4千両を拝領している。 鍋島家への借金については前述の通りである。 明次は書の名手で、書家三井親和に学び、太冲と号した。将軍ならびに尾張侯の書の師範をつと めたため、参勤交代の時に桑名、熱田間の渡海を三葉葵の印のある尾張家の船で行っており、明治 維新まで続いた。 【参考文献】 『寛政重修諸家譜』『美作勝山藩志稿』 (佐野篤太郎編 岡山県地方史研究連絡協議会、昭和40年) 『勝山町史(前編)』(森本清丸編 勝山町、昭和49年) 『御帰城御道中日記』(嘉永7年)
参考資料:「岡山県総合文化センターニュース」No.434号、H14年7月 http://www.libnet.pref.okayama.jp/center_news/news434.pdf
『寛政重修諸家譜』(続群書類従完成会、昭和55~56年)
佐野篤太郎編『美作勝山藩志稿』(岡山県地方史研究連絡協議会,昭和40年)
森本清丸編『勝山町史(前編)』(勝山町,昭和49年)
『御帰城御道中日記』(嘉永7年),
備考:M2004102614511243205
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