法学博士瀧川幸辰は明治24年(1891年)2月24日に岡山市に生まれた。父豊三郎は幸辰が7歳の時に腸チフスで亡くなっている。幸辰の家族は父のたった一人の弟、すなわち叔父に引取られ、幸辰は叔父の許で成長していく。 明治36年(1903年)、兵庫県立神戸中学校へ入学し、家の都合で大阪府立北野中学校へ転入学した。北野中学校では野球部に入り、捕手をしていた。 明治42年(1909年)7月、第三高等学校一部丙類に入学した。一部丙類のクラスは第一外国語がドイツ語であった。幸辰は中学校3年の時からドイツ語を習っており、英語よりドイツ語のほうがよくわかるようになっていた。しかしナンバースクールの中でドイツ語が受験科目であったのは一高だけであったため、三高の入試では英語で受験している。 幸辰は三高の入試の時に北村保太郎とはじめて出会っている。入試の答案の提出順を北村と競い、入学席次は北村が幸辰の1つ前であったという。この北村の妹が幸辰の妻静子である。 明治45年(1912年)、京都帝国大学法科大学独法科へ入学し、大正4年(1915年)に卒業した。その後3年間京都地裁・検事局で修習を受け、大正7年(1918年)京都帝国大学法科大学助教授となった。大正11年(1922年)から主としてドイツへ留学し、帰国してすぐに教授に昇格した。 昭和8年(1933年)、貴族院議員菊池武夫は幸辰が中央大学法学会で行った「トルストイの『復活』に現はれた刑罰思想」の講演内容を問題にし、「帝大赤化教授」として攻撃した。さらに鳩山一郎文相が幸辰の「刑法読本」を非難して、幸辰の辞職または休職を要求した。小西重直京大総長および法学部教授会は処分拒否を回答したが、文官高等分限委員会が休職を決定した。これに対して法学部全教授が辞表を提出した。結局小西京大総長が辞任し、松井元興が総長となって、幸辰ら7教授、5助教授、2講師、4助手、2副手の辞職となった。 昭和11年(1936年)から刑事専門の弁護士となったが、昭和21年(1946年)、京大教授に復帰し、法学部長をつとめた。昭和25年(1950年)に法学部長をやめるが、その翌年昭和天皇が京都大学を訪問した際に法学部を代表して進講している。この時、学生たちが「天皇制廃止」のプラカードを立てて、「平和の歌」と称するものを合唱する騒動いわゆる「天皇事件」が起きた。幸辰は騒動を起こした学生たちに断固たる処置をとるべきだと考えていた。 昭和28年(1953年)第15代京大総長となった。昭和30年(1955年)幸辰が学内を歩いていた時幸辰に暴行を加えるという「総長暴行事件」が起きたが、昭和32年(1957年)、総長任期満了までつとめた。その後ノートルダム女学院大学教授になり、昭和37年に71歳で死去した。 法学博士瀧川幸辰は、多くの著書を残しており、日本学士院会員でもあった。 【参考文献】 「学問と世間」(瀧川幸辰著 有恒社 S22) 「随想と回想」(瀧川幸辰著 有斐閣 S22) 「瀧川幸辰 文と人」(瀧川幸辰先生記念会 S38) 「激流 昭和レジスタンスの断面河出ペーパーバックス23」(瀧川幸辰著 河出書房新社 S38)
参考資料:「岡山県総合文化センターニュース」No.439号、H15年5月 http://www.libnet.pref.okayama.jp/center_news/news439.pdf
瀧川幸辰著「学問と世間」(有恒社,昭和22年)
瀧川幸辰著「随想と回想」(有斐閣,昭和22年)
「瀧川幸辰 文と人」(瀧川幸辰先生記念会,昭和38年)
瀧川幸辰著「激流 昭和レジスタンスの断面河出ペーパーバックス23」(河出書房新社,昭和38年),
備考:M2004102615075743212
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