立春・立秋など二十四節気は、春秋戦国時代の中国で作られたもののようである。
関連の記述のあった、以下の資料を紹介した。
辞典
『暦の百科事典』(暦の会編 新人物往来社 1986)
p319〈二十四節気〉の項に、次の記述あり。
「古代中国の王の最大の為政は、いかにして人民に気候の推移を正しく知らせるかにあった。長い間、太陰暦と季節との狂いをいかにして直すかが考えられてきた。そして古人の英知は、二十四節気というものを考え出した。」
「この二十四節気は、古代中国の黄河流域の季節にもとづいており、日本に置きかえると多少ズレが感じられる。」
『現代こよみ読み解き事典』(岡田芳朗編著 阿久根末忠編著 柏書房 1993)
上記と同様の記述あり。
『暦と時の事典 日本の暦法と時法』(内田正男著 雄山閣出版 1986)
p219〈二十四気〉の項に、次の記述あり。
「二十四気の名称はそれが成立した前数世紀ころの華北の気候を基につけられているから、現在の日本の気候に照らして適切でないものがあっても不思議ではなく、(中略)『古事類苑』の歳時部をひらいても、冬至・立春など特殊なもの以外、なんの資料もない」
「二十四気の名称が必ず記載されるようになったのは貞享以後のことである」とあり。
『世界大百科事典 21』(平凡社 2007)
p313〈二十四節気〉の項に、「12個の中気と12個の節気の総称で、中国の戦国時代に成立した」とあり。
『国史大辞典 10』(国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1989)
p880〈二十四節気〉の項あり。成立については、記述なし。
暦に関する資料
『旧暦読本(とくほん) 現代に生きる「こよみ」の知恵』(岡田芳朗著 創元社 2006)
p140-141「わが国は、江戸時代の初め頃まで、古代中国で成立した七十二候をそのまま使っていました。(中略)貞享改暦(1684年)にあたって渋川晴海が日本の実情に合わせた『本朝七十二候』(新制七十二候)を選んで発表しました。(中略)明治改暦の際、二十四節気・七十二候は大幅に改訂され、明治七年(1874)の官暦から掲載されました。これが現代における標準的二十四節気・七十二候です。」とあり。
『こよみ 東京大学公開講座 70』(蓮實重彦〔ほか〕著 東京大学出版会 1999)
川原秀城著「中国の暦法」に、「暦法のもっとも原初的な形態は、気候や風物などによって季節の推移を示す物候暦であり、中国に置いても相当早い時期からそれにもとづいて観象授時が行われていたらしい。」(p32)「前七世紀頃には、暦と季節のずれを正す指針として、二十四節気が導入され」(p33)とあり。
岡村定矩著「暦と天文学」に、「『日本書紀』に始めて暦の記述が現れるのは、欽明天皇14年(西暦553)である。(中略)実際に暦が日本で使われたのが確実である最も古い記録は、持統天皇6年(西暦692年)の、「勅を奉りて始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行う」である。」 「日本人によって作られた初めての暦は、渋川春海による貞享暦であり、貞享2年(1685年)のことである。」(p123)とあり。
『暦 技術の上から時代の歴史を見る 日本歴史新書 28』(能田忠亮著 至文堂 1980)
p47〈礼記月令〉の項あり。「西紀前239年に製作された呂氏春秋十二紀の首文」に1年の天象記事が見え、「この月令の最も理想的に起こり得た年代として、西紀前620年―魯の文公7年を中心として、上百年、下百年、すなわち春秋の世の始め頃から二百年という結果を得た。」とあり、二十四節気もほとんど成立、あるいは成立しつつあったと推測している。
『暦と易と文字の話 中国五千年の文化』(楠孝雄著 古代中国文明仰楠塾 1992)
p111-〈二十四節気の由来〉の節に、「二十四節気は、元々農事の暦として、中国で始められたものであって」。いつ頃成立したものかについて記述なし。
雑誌
『歴史読本 54(1)』(新人物往来社 2009.1)
p84「旧暦と「二十四節気」「七十二候」の関係とは?」に、「もともと中国北部の季節を表わし、日本の風土に合わないものもあったから、貞享改暦(1684)に当って、渋川晴海が日本に適したように修正した。」(七十二候)「今日使用されているのは、さらに明治初年に改訂したものである。」とあり。
p98「二十四節気と日本の〈しきたり〉」に、「二十四節気は、太陰太陽暦を使用してきた中国で、戦国時代に暦月(月の満ち欠けによる各1か月)の名称を決定し、季節を知る目印として成立した。」とあり。
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