『滋賀近代文学事典』によりますと、読み方は「なかにし・やすこ」で、略歴は「1919・10・日未詳~。歌人。甲賀郡(現甲賀市)甲賀町田堵野に生まれる。旧姓増井。1936年3月、京都高等手藝学校(現橘女子高等学校)師範科を卒業し、同年10月岡山県高梁教員養成所を修了。37年滋賀県甲賀大原尋常小学校、翌年4月より水口尋常小学校に勤務する。45年2月結婚のため教員を退職し、4月に夫の勤務先である滋賀県満洲報国農場の寮母として中国に渡る。その報国農場は、食料増産、満洲開拓、青少年教育を目的に当時の東満総省琿春県崇礼村に創設された農場であった。ソ連軍侵攻のため、45年8月9日勤労奉仕隊とともに農場を離脱し、間島、吉林、綿西を転々とする。1年間中国における難民としての集団生活を記録した『敗戦とわたし』(85年8月、私家版)は、長男を出産するもわずか10日で亡くしてしまう体験なども記され、戦争の悲劇的実像を伝える貴重な歴史的証言である。46年8月葫蘆島より夫とともに帰国。50年7月白珠に入社、55年7月には同人となる。戦争体験にもとづく実感溢れる短歌を詠む。歌集に『かの戦ひは』(71年9月、くれは草房)、『柴香双紙』(89年1月、短歌新聞社)がある。(後略)(西尾宣明)」とあります。
参考資料: 1 滋賀近代文学事典 日本近代文学会関西支部滋賀近代文学事典編集委員会∥編 和泉書院 2008年 S-9000- 08 p.246,
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