色鉛筆の歴史については下記資料に記載がありました。
『画材の博物誌』(森田恒之/著 中央公論美術出版 1986.6)
p.106「色鉛筆はコンテ(人名)が採用した伝統的な二色(赤褐・白)以外の多彩なものは一九世紀中頃以後、主にイギリス、ドイツ両国で染料化学工業の長足な進歩を背景に、主にレーキ顔料と粘土の配合加工で生まれてきたものである。」
『時代を書きすすむ三菱鉛筆100年』(社史編纂室/編集 三菱鉛筆 1986)
p.77「異色の色鉛筆専門工場」として大和鉛筆が紹介されています。
「大和鉛筆は企業規模は小さく、しかも色鉛筆のみで墨芯は扱わないという当時としては異色の存在であった。
(中略)大正6年(1917)、東京の蔵前高等工業学校の応用化学科の研究室で、色芯の色素を研究していた高崎均という人物がいた。高崎は都内のある鉛筆会社の社員であったが、岩手県の盛岡師範学校の元校長という一風変わった経歴の持主であった。この高崎が応用化学科の疋田桂太郎に色鉛筆の企業化を相談し、疋田が応用化学科の鈴木達治科長を高崎に紹介したのが同社のきっかけとなった。」
『鉛筆とともに80年』 (社史編纂室/編集 三菱鉛筆 1966.10)
p.8「赤鉛筆では、明治以前にわが国に渡来し、現在も残っているというものはない。ただ、姫路市の姫路神社に赤鉛筆で書いたのではないか、と思われる奉書紙の文書が保存されている、とながいあいだいわれてきた。この文書は徳川幕府の大老で徳川家綱に仕えた酒井忠清の覚え書きの一部だと伝えられていたが、どういう事情か、現在は見当たらないそうである。だが、これから察するに赤鉛筆も、少なくともこの時代には日本にもたらされていた、と見ていいだろう。」
参考資料:『画材の博物誌』(森田恒之/著 中央公論美術出版 1986.6) (ページ:106),
参考資料:『時代を書きすすむ三菱鉛筆100年』(社史編纂室/編集 三菱鉛筆 1986) (ページ:77),
参考資料:『鉛筆とともに80年』 (社史編纂室/編集 三菱鉛筆 1966.10) (ページ:77),
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