死亡した場所は、東京、築地二の三一の自宅。1915(大正4)年7月29日に死去。
葬儀の場所は、兵庫県武庫郡住吉村の自邸。同年8月3日に本葬。
回答プロセス:神戸又新日報、神戸新聞、大阪朝日新聞(いずれもマイクロ)、東京朝日新聞(データベース・聞蔵Ⅱビジュアル)、東京読売新聞(データベース・ヨミダス歴史館)で、死亡・葬儀記事や広告などを調査した。
その結果、死去した場所は、いずれの新聞でも東京築地となっている。
葬儀場所は、神戸又新日報のみ「大阪府住吉の本邸」(大正4年7月30日、2面、才賀代議士逝く)とし、そのほかは、「摂津住吉」(大阪朝日新聞、大正4年7月30日、3面、才賀代議士逝く)「兵庫県武庫郡住吉村」(同紙、同年8月1日・3日、12面、広告)「摂津灘住吉邸」(東京朝日新聞、 大正4年7月31日、1面、広告)「灘住吉の自邸」(同紙、同年8月5日、5面、才賀代議士葬儀)「本邸摂津住吉」(東京読売新聞、大正4年7月30日、5面、才賀代議士逝く)としている。
これにより、葬儀の場所は兵庫県武庫郡住吉村の自邸と判明した。
備考:・マイクロ「神戸又新日報」 1915(大正4)年7月30日(第10444号) 2面 「才賀代議士逝く」より
「…才賀藤吉氏は…心臓病に罹り築地二丁目の邸に静養中なりし所本月上旬より腎臓病を併発したるが薬石効なく二十九日午前八時四十分に逝去せり遺骸は当地において荼毘に附したる後大阪府住吉の本邸に送り本葬を営むべしと(東京電話)。」
・マイクロ「神戸新聞」 1915(大正4)年7月30日(第6242号) 2面 「才賀代議士逝く」より
「…才賀藤吉氏は予て尿毒症にて療養中の所二十九日午前八時四十分築地二丁目の邸に於て逝去したり遺骸は三十日荼毘に附して郷里に送り葬儀を営む由…(東京電話)」
・マイクロ「大阪朝日新聞」
1915(大正4)年7月30日(第12034号) 3面 「才賀代議士逝く」より
「腎臓病にて屡々危篤を報ぜられたる…才賀藤吉氏は築地の自宅に於て二十九日午前八時十五分遂に死去したり因に三十日午後五時日暮里の火葬場に於て火葬に附し遺骨は…三十一日午後六時二十五分東京駅発摂津住吉に於て本葬を営む由(東京電話)」
1915(大正4)年8月1日、同3日 12面 広告より
「才賀藤吉儀病気の所養生不相叶本月二十九日午前八時二十分東京仮寓に於て遂に死去致候間此段御通知申上候
追て来る八月三日午後三時自邸に於て葬式営み申候
大正四年七月三十一日
兵庫県武庫郡住吉村…」
・データベース「聞蔵Ⅱビジュアル」
朝日新聞 東京 朝刊
1915年7月30日 5面 「才賀代議士逝く」より「…才賀藤吉氏は築地二の三一の自宅に於て、廿九日午前八時十五分心臓病の為めに死去したり…」、「…今三十日午後五時日暮里火葬場に於て火葬に附し遺骨は…明三十一日午後六時二十五分東京駅を発し灘の住吉に行き同所に於て本葬を営む由」
1915年7月31日 1面 広告より 「才賀藤吉儀昨二十九日死去致候間此段御報申上候追而三十一日午後六時廿五分東京駅発列車にて摂津灘住吉邸へ出立本葬式の儀は八月三日同地にて可相営候」
1915年8月5日 5面 「才賀代議士葬儀」より 「…葬儀は三日午後三時灘住吉の自邸に於て執行されたり」
・データベース「ヨミダス歴史館」
読売新聞 1915年7月30日 朝刊 5面 「才賀代議士逝く」より
「…才賀藤吉氏は…心臓病に罹り築地二丁目の自宅に於て療養中本月上旬より腎臓病を併発し…二十九日午前八時四十分遂に逝去したり」、「…年四十六因に遺骸は当地に於て荼毘に附し氏の本邸摂津住吉に送り追て葬儀を発表する由」
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