太田郷知行時代に水戸藩附家老の中山氏は,別高・外高という形で一つの藩のように知行地で独自の行政を行うようになりましたが,あくまでも水戸藩から与えられていた知行地で,委譲された権限にも限度がありました。
中山氏が大名として独立を認められ「松岡藩主」となるのは明治元年ですので,それ以前は中山氏の「藩」は存在しません。
詳しくは参考資料をご覧ください。
回答プロセス:(1) Wikipediaの中山信敬の項目を確認→「常陸国太田藩」の記述あり。[last access 2014/11/07]
脚注で引用されている『徳川御三家付家老の研究』を確認→「太田藩」の記述なし。
p.284「明治元年(1868)1月24日に朝廷から念願の大名になることを認められる」=松岡藩になる。
(2) 関連する図書を確認
○『近世藩制・藩校大事典』→「太田藩」の記述なし。
p.332「松岡藩」
慶長7年(1602) 戸沢政盛が常陸国多賀・茨城両郡の内4万石に封ぜられる。
元和8年(1622) 戸沢氏出羽へ国替により一部が水戸領になり,その後その一部は水戸藩付家老中山氏の知行地となる。
明治元年(1868) 中山信徴が藩屏に列せられ,領地高2万5千石の松岡藩として独立。
○『藩史大事典 第2巻 関東編』→「太田藩」の記述なし。
pp.3-13「松岡藩」
p.3「藩の概観」:上記同様の記述あり。
p.5「藩主一覧」:「中山家は,正式には最後の信徴だけが松岡藩主」との注記あり。
◎『高萩市史 上』
第4編第7章「松岡附の成立と中山氏の支配」
pp.460-464「別高の性格とその成立過程」
中山氏の太田郷知行時代に,附家老中山氏についての「別高」・「外高」といわれる家臣の知行制度上の変質が発生。
p.460「この別高や外高というのは,水戸藩35万石の中において,中山氏の知行地は特別別個のもの,枠外的なものという意味であり,中山氏の知行地においては,中山氏が行政などを独自に施行するという意味である。水戸藩は創立以来その家臣の知行地は,その知行地からの貢納が知行家臣の収入になったにすぎないものであったが,中山氏のこのような別高成立は,知行地を領地と呼び,中山氏が家士を独自に召抱え行政を行なうなど,水戸藩内において一つの新規の小藩的な性格のものが成立したことである。」
pp.473-481「職制と権限」に,中山氏職制についての解説と,水戸藩から委譲されていた権限・委譲されていなかった権限等について解説あり。
p.479「中山氏の完全な施政権の独立は,慶応4年1月維新政府によって大名として独立を認められてからのことである。」
巻末:「高萩市史略年表」より
正保3年(1646) 松岡城地水戸藩家老中山信正の知行地となる。
宝永4年(1707) 12月 第6代中山信敏,常陸太田地方へ知行地替えになる。松岡故城地及び下手綱村の一部は旧によって中山氏の知行地。
宝永6年(1709) 10月 中山氏自己の裁量により年貢などを徴することを許される(別高の成立)。
享和3年(1803) 11月29日 中山信敬,別高太田村等新田共26か村と引替えに,松岡地方29か村7新田を知行地とする。
明治元年(1868) 1月24日 中山氏藩屏に列せられ,松岡藩として独立する。
(3) 研究員に確認→太田は知行地が太田であっただけで,中山氏が藩として認められるのは明治元年のことなので,太田藩は存在しない。
事前調査事項:『常陸太田市史』は調査済
参考資料:小山譽城 著 , 小山, 譽城. 徳川御三家付家老の研究. 清文堂, 2006.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009281988-00, (当館請求記号 210.5/141)
参考資料:大石学 編 , 大石, 学, 1953-. 近世藩制・藩校大事典. 吉川弘文館, 2006.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008107094-00, 4642014314(当館請求記号 210.5/119)
参考資料:木村礎 [ほか]編 , 木村, 礎, 1924-2004. 藩史大事典 第2巻 (関東編). 雄山閣出版, 1989.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002016555-00, 4639009208(当館請求記号 210.03/38/2)
参考資料:高萩市史編纂専門委員会/編 , 高萩市史編纂専門委員会. 高萩市史 上. 高萩市役所, 1969.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I012360487-00, (当館請求記号 K224/1/1)
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