『兵庫県史』第2巻(中世編1)昭和50年発行
第一章第二節の3「清盛の死」P75〜
『平清盛 福原の夢』高橋昌明(講談社 2007年発行)
序章「皇胤」の3「明石の海」P14〜
以上、2冊の図書に共通して書かれていることを要約すると次のようになる。
清盛の遺体は愛宕の葬所で火葬にふされた。『平家物語』には、遺骨は側近の円実法眼が頚にかけて摂津の国に下り、経の嶋に納めたと書かれている。(経の嶋とは、清盛が中国貿易にそなえ大輪田泊を改修したときに築いた島です。大輪田泊は、現在の神戸市兵庫区兵庫港のあたりにあった重要港で、鎌倉時代
から兵庫津と呼ばれるようになりました。)
神戸市兵庫区切戸町の「清盛塚」は、移転時の発掘調査によって、墳墓でないことが確認されている。
『吾妻鏡』には、遺言によって遺骨は播磨国山田の法華堂に納められた、と書かれている。播磨国山田は現在の神戸市垂水区西舞子町付近にあたり明石海峡を望む地である。播磨国山田は、『高倉院厳島御幸記』と延慶本『平家物語』に見える地であり港でもあった。つまり、ここに清盛の山荘のひとつがあったと考えられる。
『平清盛 福原の夢』(高橋昌明著)には、加えて次のことも書かれている。「また清盛塚のすぐ近くの北逆瀬川町に能福寺がある。寺伝には、仁安二年という年と、清盛が当寺で剃髪したという主張は事実ではない。」
○それぞれの本が述べる考察について
『兵庫県史』
「そうみてくると、(播磨国山田が)いかにも清盛の遺言によってその遺骨を納めるのに格好の土地だということになる。法華堂がどこにあったかまではわからないが、その遺骨はおそらく、平氏が福原落ちにあたって持ち去ったのではないだろうか。法華堂もあるいは焼いたかも知れない。清盛の墓所が早く失われた理由はたぶん、そんな事情のなかにかくされているように思えるのである。」と述べている。
『平清盛 福原の夢』(高橋昌明著)
「彼の墓所を経の島か山田の法華堂か、どちらかに決定する材料はない。」と述べています。『吾妻鏡』と『平家物語』の成立年代、影響関係についても触れた上で、「筆者は、清盛は、海峡をしげく行き交う船の櫓音を聞きながら、永遠の眠りにつくことを望んだ、と思っている。」と述べている。
○伝承的な要素、信頼性の度合いはどのように違うのかについて
『平家物語』と『吾妻鏡』という資料に基づいた考証であるということではないでしょうか。鎌倉時代当時にそのようなこと(『平家物語』と『吾妻鏡』に書かれていること)が流布あるいは定着していたということが分かる。
↧