ジョサイア・コンドル(Josiah Conder 1852-1920)は、港区には工務省技術官ならびに工学寮教師として来日し、日本の洋風建築の発展に大きく貢献したイギリス出身の建築家です。 (港区史 下巻p.585より)
『ジョサイア・コンドル 港区人物誌 五』
コンドルの生い立ちから晩年までの概略を確認することができる。
p.20-21に麻布三河台町に1904年(明治37年)に約830坪の自邸が完成し、趣味であったアマチュア演劇やガーデンパーティに友人を招いたことなどが記載されている。
p.22に、現存の7軒中2件が港区とある。
p.34にマップ、p.37に年譜がある。
『港区史 下巻』
p.585に「コンドル博士設計の区内建築物」の表があり、岩崎家別邸・川村氏邸・今村氏邸・三井家クラブなどの所在地や竣工年月を確認できる。
p.586に三井クラブの写真とともに、「記念すべき建物も大部分は震災、戦災などのため姿を消し(中略)、三田綱町の三井クラブは大震災で内部を破損、昭和4年その原型をくずすことなく大修理をしたのみで、戦災にもあわず、当時のままで残存し、明治時代建築を如実にしることができ建築史上貴重なものである」との記述がある。
『綱町三井倶楽部』
p.11-130に建物の外観と内装や調度品とともに庭園内の様子を写したカラー写真がある。
p.131-196に建設と敷地の変遷やコンドルの書簡などについて詳しい。p.132に「着工は1910年(明治43)8月、竣工は1913年(大正2)12月といわれ、数多い彼の作品のなかでも、脂の乗り切った時代の傑作の一つとされる」とある。p.137に「コンドル博士作物一覧表」がある。来日以来45年間に40件近くの住宅を設計しており、中でも岩崎家との個人的関係も深かったことなどから、岩崎家や三菱系企業関連の建物の設計を多く手がけていることがわかる。
p.197-214に「綱町三井倶楽部図面集」がある。
『ジョサイア・コンドル』
「はじめに」に「明治10年、西南戦争が間もなく勃発するという慌ただしい年の1月、日本政府の招聘(しょうへい)を受けた24歳の建築家、ジョサイア・コンドル(1852-1920)は英国から横浜に到着した」とある。
p.8-12にコンドルの生涯と日本での活躍などについて詳しい。日本の妻子の逸話などがあり、1920年(大正9)にコンドルの看病に疲れた妻くめが急逝した後を追うように11日後にコンドルも67歳でこの世を去ったことがわかる。
p.61-169にコンドルが手がけた各建物の歴史・平面図・立面図・調度品などがカラー写真と共に掲載されている。
p.73にコンドルの個人住宅として第一号作品である川村純義(1836-1904)邸の写真がある。1882年(明治15)完成。現在のロシア大使館(麻布台2-1-1)と裏手のアメリカンクラブ一帯にこの川村家の屋敷があったことが確認できるとある。
p.222,223にコンドルと妻くめ、娘ヘレンの写真があり、p.240,241には「ジョサイア・コンドル家系図」がある。
『物語ジョサイア・コンドル』
p.184~215「丸の内ビジネスタウンの建築」、p.216~261「赤レンガ街の歴史はじまる」に、「三菱一号館」がコンドルの設計により1894年(明治27)に建てられることになった経緯などが記載されている。
岩崎彌之助が渋澤栄一と競り合い、当時の大蔵大臣松方正義に直談判し1889年(明治22)丸の内の17万坪余りの土地を総額128万円で払い下げさせた。赤レンガ街と呼ばれるこの一画に、コンドル設計の本格的なレンガ造りの建築物が建てられて行くことになる。
『ザ・AZABU vol.19-30』
Vol.20、p.6「麻布の軌跡 英国から来た建築家 ジョサイア・コンドル」に、「工部大学校造家学教師(教授)として英国人ジョサイア・コンドル(1852-1920)は、月給333円余、5年契約で1877年(明治10)1月に来日し、『工部省傭(やとい)教師館御用地』として引渡し済の麻布今井町22番地(現六本木2-1)に入居している。(中略)1904年(明治37)にコンドルが建築した自邸は麻布三河臺町25番地(現六本木4-3)で約882坪あり、1階煉瓦造、2階木造建、洋館と和館の混合館である」とある。
「1893年(昭和26)に前波くめ(1856-1920)と結婚、くめの姉の子ヤエを養女とし、その直前にコンドルは自分の生き別れた実子ハル(ヘレン・アイコ 1880年(明治13))を妻くめの養女として引き取っている。(中略)1902年(明治35)にハルの名前でその土地を買い、ハルが結婚する1906年(明治39)6月に、ハルが帰れる家とハルの持参金にしたかったのか、コンドルは自邸の建物や庭のバラなどのために存続期間999年(ほぼ10世紀)の地上権を設定し、その地代6,000円をハルに払っている」とある。
『明治の港区』
p.162-166「開東閣とその付近」に、建築家 清水一の文章とともに岩崎弥之助別邸である「開東閣」の写真の掲載がある。
『よみがえる明治の東京』
p.161高輪岩崎邸(現開東閣)の写真あり。岩崎弥之助の別邸として1903年(明治36)起工、1908(明治41)竣工し、子の岩崎小弥太が1938年(昭和13)に三菱の社内親睦用のクラブとして提供したことがわかる。
『鹿鳴館の夢』
p.44-49にコンドルが師事していた画家河鍋暁斎から「暁英」の画号を贈られた経緯などがあり、p.30-36に暁英の日本画やスケッチをカラーで確認できる。
『明治大正建築写真総覧』
p.40「訓盲院」、p.47「上野博物館」、p.49「鹿鳴館」、p.63「岩崎邸洋館」、p.68「ニコライ会堂」、p.72「基督教青年会館」、p.74「海軍省」、p.82「独逸公使館」、p.83「墺太利公使館」、p.110「東京倶楽部」にそれぞれの写真の掲載がある。
『ジョサイア・コンドルの綱町三井倶楽部』
巻頭に建物外観と庭園などの写真がある。
p,73に平面図の記載がある。
p.124-125に「J.コンドル書簡一覧表」がある。p.129に「新発見のコンドル書簡」に1989年(平成元年)に発見された綱町別邸に関するコンドル最晩年の自筆書簡についての記載がある。
『日本の建築「明治大正昭和」2』
p.94-140にコンドルの生い立ちから日本趣味と著作活動やその終焉について詳しい。
『日本のいけばな The flowers of Japan and the art of floral arrangement』
コンドルの生け花についての造形の深さをもの語る一冊。カラー図版16点。英語表記。
『河鍋暁斎』
コンドル著。p.275-290に暁斎・コンドル略年譜があり、1881年(明治14)コンドル29歳の時に河鍋暁斎50歳に入門し日本画の実技を学び始めたことがわかる。暁斎に「コンデル君」の愛称で親しまれていたという。
暁斎の作品のうちコンドル・コレクションとなった作品を含め、師の数々の作品がコンドル自身によって紹介されている。
『コンドル博士と岩崎家四代』
令和2年にコンドル没後100年を顕彰し、文京ふるさと歴史館で開催された特別展の記念誌。
『暁英』
作家北森鴻が逝去したため未完となった作品などが掲載されている。鹿鳴館とコンドル、その発起人であった井上馨や画家河鍋暁斎との関係などを描いている。
『鹿鳴館を創った男』
コンドルを題材にした小説。
[港区立図書館ホームページ](港区ゆかりの人物データベース)に「コンドル」のプロフィールや港区とのかかわりが掲載されている。
(2024年2月更新)
参考資料:港区史下巻東京都港区役所/編集東京都港区役所, (p.585,586)
参考資料:綱町三井倶楽部綱町三井倶楽部記念誌編集委員会/企画・編集三井不動産, (p.11-214)
参考資料:ジョサイア・コンドル鈴木 博之/監修建築画報社, (p.8-12,61-169,222,223,240,241)
参考資料:ザ・AZABUvol.19-30ザ・AZABU編集室/編港区, (vol.20 p.6)
参考資料:明治の港区東京都港区立三田図書館/編港区, (p.162-166)
参考資料:よみがえる明治の東京玉井 哲雄/編集角川書店, (p.161)
参考資料:鹿鳴館の夢Inax, (p.30-36,44-49)
参考資料:暁英北森 鴻/著徳間書店,
参考資料:河鍋暁斎ジョサイア・コンドル/著岩波書店, (p.275-290)
参考資料:ジョサイア コンドル港区立郷土歴史館/編港区, (p.20-21)
参考資料:鹿鳴館を創った男畠山 けんじ/著河出書房新社,
参考資料:明治大正建築写真総覧高杉 造酒太郎/編建築学会, (p.40,41,47,49,63,68,72,74,82,83,110)
参考資料:日本のいけばなジョサイア・コンドル/著講談社インターナショナル,
参考資料:ジョサイア・コンドルの綱町三井倶楽部石田 繁之介/著南風舎, (p.73,124-125,129)
参考資料:物語ジョサイア・コンドル永野 芳宣/著中央公論新社, (p.184-261)
参考資料:日本の建築 明治大正昭和2三省堂, (p.94-140)
参考資料:コンドル博士と岩崎家四代文京区文化資源担当室/編集文京ふるさと歴史館,
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