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下松市の緑ヶ丘市営住宅付近に「鎮魂」とある石碑(平成12年(2000年)8月、山口県知事二井関成の署名あり)があり、この辺りは戦時中、陸軍病院(避病院か)があり、広島原爆投下後に被爆者が移送され、死体の処理もされたという話を聞いている。この病院について、また石碑建立の経緯が知りたい。(山口県立山口図書館)

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当該病院は、広島第一陸軍病院櫛ケ浜分院(または花岡分院とも呼ばれた。)と思われる。同病院では、広島原爆投下後に、被爆した軍人の治療に当たったとされる。その後、国立柳井病院花岡分院となり、昭和21年に廃止された。昭和46年に、被爆軍人の治療に同病院が関わったことが明るみになり、昭和50年には、同地付近に遺体が仮埋葬されたとの情報もあったが、調査の結果、遺構等は見つからず、その後の経緯は不明。 また、石碑については徳山市(当時)の医師、光永徹氏が、当地が被爆軍人の治療に関わったことを風化させないために私費で建立したもの。 石碑について、下記資料1『いのりとちかい』p119に、読売新聞平成13年(2001年)1月4日付け「下松/「被爆兵士治療」後世に/医師病院跡近くに石碑建立」の記事が引用されている。それによると、この石碑は、徳山市の医師、「光永徹」氏が「旧広島第一陸軍避櫛ケ浜分院(別名・花岡分院)」跡地に、土地を借りたうえで私費で建立したものとある。また分院跡は造成されて、当時を伝えるものは残っていないとある。光永氏は、昭和20年(1945年)当時、軍医の父親について花岡に住んでいたといい、花岡で原爆関係の記録が顧みられないことを惜しんで、当時を知る人から聞き取りを続ける中でこの碑を建立し、今後は何らかの形で資料をまとめたいと考えている、とある。揮毫者については記載がない。 広島第一陸軍病院櫛ケ浜分院(花岡分院)については、資料2『広島原爆戦災誌 第1巻』p337によると、県立徳山高等女学校内に、広島第一陸軍病院櫛ケ浜分院が昭和19年(1944年)11月に開設されたが、昭和20年7月25日の空襲により全焼したため、新設途上だった第一陸軍病院花岡分院に全患者を収容したとある。なお、『大下松大観』p73-74に、昭和7年(1932年)に「西柳」に避病院が新築された、とあるが、当該櫛ケ浜分院(花岡分院)との関係は不明。この資料は“国立国会図書館デジタルコレクション”で利用できる。(図書館・個人送信限定資料) 『広島原爆戦災誌』第1巻,広島市,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12398937/1/224 (参照 2024-10-23) また、『広島原爆戦災誌』は、“広島平和記念資料館平和データベース”のウェブサイトで全文ダウンロードして利用できる。 “広島平和記念資料館平和データベース 図書”(広島平和記念資料館) https://hpmm-db.jp/book/ 同様の記述は資料3『山口県立徳山高等学校百年史』p605にもあり、徳山高等女学校の校舎を接収するか体で設置された病院は「広島第一陸軍病院花岡分院と呼ばれていたという」が、昭和20年7月26日に全焼したため「建設途上の花岡分院へ移送した」とある。 また、資料4『国立病院十年の歩み』によると、戦後、昭和20年12月1日に陸軍病院は廃止されて国立病院となった(p7)ため、当該病院は国立柳井病院柳ケ浜分院(櫛ケ浜の誤植と思われる。)となり(p18)、昭和21年2月28日に「国立柳井病院花岡分院」と改称、同年7月31日に廃止(国立療養所山陽荘に転用)とある(p776-777)。 なお、資料により「櫛ケ浜分院」「花岡分院」の名称が混在しているが、徳山高等女学校内にあった櫛ケ浜分院が焼失した際、花岡分院は建設途中であったため、移転した際は「櫛ケ浜分院」の名称が引き続き用いられたものと思われ、戦後改めて「花岡分院」になったものと考えることができるが、詳細不明。 また、当該病院での被爆軍人の治療については、川本一之「陸軍病院の原爆被災記録―26年目に発見されたカルテ―」(資料5「世界」(313)p164-171)などに記載がある。それによると、昭和46年ごろに県内の病院で発見された記録により、花岡分院で被爆軍人の治療が行われたことが明らかになったもので、同号にはこの記事のほか、当時勤務していた医師の手記などが掲載されている。 その後の経緯について、資料6『年表ヒロシマ』p988-989の昭和50年(1975年)6月13日条に、下松市の広島陸軍病院櫛ケ浜分院の跡地に仮埋葬された被爆軍人の遺体発掘調査を同県援護課に依頼し、下松市は14日に調査することを決めた、との記事がある。またp989の同年6月16日条に、現地調査の結果、遺体を焼却した防空壕等、関係する遺構は発見されなかったが、証言者が見つかった旨の記載がある。 資料6の記事に出典として記載されている中国新聞を確認したところ、以下の記事が見つかった。 昭和50年6月14日付け「被爆軍人の遺体放置/《下松の陸軍病院分院跡地一帯》/約200体、仮埋葬のまま/被団協など発掘要望」 昭和50年6月15日付22面「下松市が調査へ/被爆軍人の遺骨仮埋葬」 昭和50年6月17日付14面「被爆軍人焼いた?/防空ごう跡発見できず/旧陸軍病院分院跡を調査/山口県と下松市」 昭和50年6月18日付け18面「「私が遺体を焼いた」/証人相次ぐ“下松の被爆者埋葬”/骨は遺族に返したはず」 なお、資料6には、平成8年(1996年)末までの広島原爆に関する事項が収録されているが、同書索引で確認する限り、このほかに資料6には「櫛ケ浜分院(花岡分院)」に関する記事は見当たらなかった。また、“G-serch新聞雑誌記事横断検索”にて、「下松」「陸軍病院」「櫛ケ浜分院」などのキーワードを組み合わせて検索したが、当該病院及び石碑に関する記事はヒットしなかった。昭和50年以降、平成12年に石碑が建立されるまで、大きな動きはなかった可能性もある。 参考資料:1.いのりとちかい : 「山口のヒロシマデー」40年の軌跡. 山口県原爆被爆者支援センターゆだ苑, 2014. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I026713980, (p119) 参考資料:2.広島市. 広島原爆戦災誌 第1巻. 広島市役所, 1971. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000001-I2611B10306304, (p337) 参考資料:3.山口県立徳山高等学校百年史編纂委員会編. 山口県立徳山高等学校百年史. 山口県立徳山高等学校, 1985. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000136-I1130282271948139904, (p605) 参考資料:4.国立病院十年の歩み. 厚生省医務局, 1955. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000955903, (p7) 参考資料:5.川本一之. 「陸軍病院の原爆被災記録―26年目に発見されたカルテ―」. 岩波書店. 世界 (313), (p164-180) 参考資料:6.中国新聞社 編著. 年表ヒロシマ : 核時代50年の記録. 中国新聞社, 1995. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002474808, 4-88517-214-4(p988-989)

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