『国史大辞典 6』(国史大辞典編集委員会/編 吉川弘文館)
p162[西寺]項
「…西寺は律令国家の崩壊とともに衰退したのである。」
(990年に大部分が焼亡,1136年に別院も焼け,1233年に塔が)「…炎上し,すっかり荒廃しきった。」
《参考文献①②》
『平安京提要』(古代学協会/編集 角川書店)
p373~396 第2部第5章[東寺と西寺]のうち,
p375「平安末期に入り,次第に律令体制が崩壊していくにつれて西寺は衰えざるをえなかった…」
p379「…西寺は管理行き届かず廃滅の憂き目を見た…」《参考文献③》
「…西寺の退廃が著しい…これら二寺の差は歴史上に起こった事件の回復に差のある…」《参考文献④》
『古寺巡礼京都 1 東寺(新版)』(淡交社)
p108~112[明暗をわけた東寺と西寺]のうち,
p110~111(990年に塔を残して罹災(復興),1233年火災で塔を失い,)「…この火事をもって事実上廃絶…」
「東西両寺の寺運の違いは…西寺は官大寺のままで推移したことによる。…その国家財政は九世紀の後半になると破綻を見せはじめる。」
『平安京跡・史跡西寺跡(京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告 2007-4)』(京都市埋蔵文化財研究所/編集 京都市埋蔵文化財研究)
p3「…東寺と異なり最後まで官寺としての役割を担った西寺は,律令体制の衰退に伴い鎌倉時代には急速に退廃したものと思われる。」
上記《参考文献》の書誌事項について(当館に所蔵がないため,内容は未確認)
『国史大辞典 6』より
①『史跡西寺跡』(鳥羽離宮跡調査研究所編)
②「にし寺興亡の研究」たなかしげひさ(『史迹と美術』363~368号)
『平安京提要』より
③「創建時の東寺及び西寺」川勝政太郎(『史迹と美術』第185号掲載、昭和23年)
④「初期天台真言寺院の建築」福山敏男,(『仏教考古学講座 第3巻』[雄山閣出版]所収,昭和11年),後再録「寺院建築の研究 下」(『福山敏男著作集 3』[中央公論美術出版]所収,昭和58年)
以下,2009年11月追記
●大阪府立中央図書館様より,以下の資料をご紹介いただく。
『日本仏教史辞典』(今泉 淑夫/編 吉川弘文館)
p364[西寺]項「 …西寺は律令国家の崩壊とともに衰退したのである。」
●大阪狭山市立図書館様より,以下の資料をご紹介いただく。
『日本名刹大事典』(圭室 文雄/編 雄山閣出版)
p281[西寺跡]項「…当寺は律令国家の崩壊とともに衰退し,正暦元年(990)焼亡し,僅かに残った塔も天福元年(1233)焼失,以後廃絶した。」
●奈良県立図書情報館様より,以下の資料をご紹介いただく。
『京都・山城寺院神社大事典』(平凡社/編 平凡社)
p280~282[西寺]のうち,[焼亡と再建・廃絶]項
「隆盛を誇った西寺も正暦元年(990)2月2日焼亡,塔を除く大部分が焦土と化したと考えられている。」
「御堂関白記」長保6年(1004)3月4日条の…記事などからすれば,西寺再建の努力が重ねられていたことが判明する。」
「保延2年(1136)12月にも南院が焼亡しており…」
「(塔も)天福元年(1233)12月24日に焼落ちた。…これ以降,西寺は都人からもほとんど忘れ去られた存在となり…」
(●京都市右京中央図書館より)
『昭和京都名所図会 6 洛南』(竹村 俊則/著 駸々堂出版)
p28~29[西寺址]項
「…西寺は鎮護国家の道場として発展したが,平安中期の正暦元年(990)2月に焼亡した。次いで鎌倉時代の天福元年(1233)には僅かに残っていた塔も焼けうせ,以後は再建されることはなかった。」
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