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足尾銅山の経営に携わった古河鉱業会社は大正6年11月に3つの会社に分離したとされているが 『足尾銅山史』(随想舎 2006)によると、大正7年に分離したとされている。どちらの年代が正しいのかを知りたい。 『国史大辞典』を見ると、また年代に相違がある。 『足尾銅山鉱毒事件関係資料 』(東京大学出版会 2009)に記載があるかどうかの確認とその他に該当する資料があるか知りたい。

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当館所蔵資料では以下の2点に1917年(大正6年)に分離と記述されている。大正7年とある資料は見つからなかった。 『日本における企業の分離・独立の研究  古河グループの電機エレクトロニクス企業の事例を中心として』(岡本久吉著 東京リーガルマインド 2010) p261に図「古河コンツェルンの形成」あり。1917年(大正6年)に「3社分立」とあり。 p290に図「古河グループの生成・発展図」あり。1917年(大正6年)に3社+1銀行に分社とあり。 この両図によると、会社の変遷は次のとおり。 1911年(明治44年)創業の古河合名会社は1917年(大正6年)に3社分立し、(名)古河鉱業会社、古河商事(株)、(持)古河合名会社となる。 さらに(名)古河鉱業会社は1918年(大正7年)に古河鉱業(株)となっている。 『日本コンツェルン全書9 浅野・渋沢・大川・古河コンツェルン読本』(春秋社 1937)p283に同様の記述あり。 また『足尾銅山鉱毒事件関係資料5』は、明治30年に設けられた足尾鉱毒事件調査委員(会)資料と明治35年に設置された鉱毒調査委員会関係の資料が所収されており、記載内容から今回の事案には当てはまらない。また同書にある「全巻掲載資料一覧」からも大正時代の記録はなし。『同書 14』には創業者の古河市兵衛の名前が散見され、「古河市兵衛借区沿革」などがあるが明治期の資料のみ。 参考資料として以下を提供した。 『日本産銅業史』(武田晴人著 東京大学出版会 1987) p198 「表112 金属鉱業者別生産価額」の説明のなかに、古河は1917年より古河鉱業(株)など法人化等による名称の変更がある」と記述されている。 『足尾銅山史』でも引用されている『創業100年史』(古河鉱業 1976)に会社の分離に関する詳細な年表あり。

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