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江戸幕府二の丸の製薬所では、どのような仕事をしていたか。 (たとえば民間薬を作るなど。朝霞の比留間家文書に生蝙蝠を納めていたとの記述がある。)

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 1792年に幕府が二の丸に製薬所を設け、栗本瑞見を主宰とし、田村元長に命じて監理させたとの記述があった。また、二の丸製薬所において洋薬の製造を始めた伊東玄朴の伝記や、取り扱った薬品名等の記述のある資料は多数見つかった。ただし、この伊東玄朴以前の様子について記述のある資料は見つからなった。以下の調査経過を報告した。 薬学関係の資料を調査 『明治前日本薬物学史 1』(日本学士院日本科学史刊行会編 日本古医学資料センター 1978)  p130「寛政四年(1792)二月、幕府二の丸に製薬所を設け、栗本瑞見を主宰とし、田村元長に命じて之を監理せしめたが」とある。  p130-131「文久元年(1861)に至り、伊東玄朴は新薬製造の急務を感じ、請願書を提出し、十一月に至り、二の丸製薬所に於て(中略)二十一種の薬品の製造を開始した。」とあり、薬品名が列記されている。  p390に上記同様の記述があるが、p131の薬品名表記と少し異なる。※注記p398によると、出典は「皇国医事大年表」(中野操 南江堂 1941)(県立未所蔵) 『日本薬学会百年史』(日本薬学会 1982)  p13〈江戸城内二ノ丸製薬所〉の項に、「このとき奥医師の1人に任ぜられた伊東玄朴は、文久元年(1861)年5月8日幕府に次の21種の薬品の製造を願い出た。」とあり。続けてその願書の翻刻(注記付)が掲載されており、薬品名が列記されている。また、製薬の様子も簡単に掲載されている。   ※この項目の参考文献は、「伊東玄朴伝」(伊東栄 玄文社 1916 (復刻版:八潮書店 1978))(県立未所蔵) 『概説 薬の歴史』(天野宏著 薬事日報社 2000)  p58「江戸幕府には”御製薬所”という官職があったが、生薬を加工して丸散剤などをつくるにすぎなかった。享保10年(1725*注二ノ丸製薬所設立前)、幕府は奥医師桂川甫筑(かつらがわほちく)に西洋薬品を精錬させ、享保11年(1726)丁子油の製造を命じた。これが製薬の初めとされている。」とあり。  p63「文久元年(1861)、伊東玄朴は新薬製造の急務を感じて請願書を出し、幕府二の丸製薬所で硫酸、硝酸、亜鉛華、硫酸亜鉛、ヨード鉄など21種類をつくる。」と記述あり。一部の薬品名のみ掲載。  p198「薬の歴史年表」1861年(文久1)の項に同上の記述あり。 『近世日本薬業史研究』(吉岡信著 薬事日報社 1989)  p383に21種の薬品製造の願書提出について記述あり。一部の薬品名のみ掲載。   ※参考文献(p395)に「中外医事新報 879」「日本医史学雑誌 No.11」あり。(県立未所蔵) 近代の化学技術より調査 『日本近代化学工業の成立』(鎌谷親善著 朝倉書店 1989)  p50-51 薬品製造21種の許可を願い出た記述あり。薬品名は一部のみ。製薬の様子も簡単に掲載されている。※参考文献p421に「伊東玄朴伝」とあり。 『江戸の化学』(奥野久輝著 玉川大学出版部 1980)  p107-108「許可をえて二の丸製薬所で二十一品目の新薬の製造をこころみている。」とあり、薬品名の一部記載あり。 医学史・医家に関する資料を調査 『明治前日本医学史 3』(日本学士院日本科学史刊行会編 1978)  p122「又同年には伊東玄朴の請願によつた二ノ丸製薬所が設けられ洋薬の製造が始められた。」とあるのみ。 『明治前日本医学史 5』(日本学士院日本科学史刊行会編 1978)  p441-442「伊東玄朴」には該当する記述なし。 『近世漢方医学書集成 99』(大塚敬節,矢数道明編 名著刊行会 1983)  p490-491「皇国名医伝 巻下」「福井楓亭」の項に製薬所に関する記述はあるが質問に該当しない。 『日本の医療史』(酒井シヅ著 東京書籍 1982)  p575「日本の医療年表」「〔寛政四年〕二月、幕府二の丸に製薬所を設け、栗本端見(昌綱)を主宰とし、田村元長らに命じてこれを管理させる。」  p581「日本の医療年表」「〔文久一年〕五月八日、伊東玄朴、新薬製造の請願書を提出。一一月より二之丸製薬所にて製薬を始める。」 伊東玄朴に関する資料を調査 「伊東玄朴伝」(伊東栄著 八潮書店 1978 ※玄文社1916刊の復刻版) (国立保健医療科学院蔵書)  p8 「玄朴先生巳ニ奥医師ニ挙ゲラレテ後、江戸城中二之丸ニ新薬製造ノ事ヲ申請セリ」とあり。  p64「安政5年幕府奥医師に任ぜられ」とあり。  p103〈林洞海〉の項に、「万延元年奥医師となり専ら二之丸製造所を主る、」とあり。  p148「玄朴奥医師に登用せられたは安政五年七月であるが」とあり  p153-204「官歴」の章 安政五年七月に奥医師に任ぜられてからの幕府内での業績について  p181-185 二之丸製薬所について詳しい記述あり。新薬製造の申請、製造した二十一の薬品名ほか。 古賀忠蔵著「蘭医伊藤玄朴」(『日本医師会雑誌 35巻4号』p236-238 日本医師会 1956.2)  21種の薬品製造の願書提出について記述あり。薬品名の記述なし。 江戸時代の文献を調査 『重宝記資料集成 31 商業・地誌』(長友千代治編 臨川書店 2007)  p54「同製薬所 桐山三了」とあるのみ。 ※〈二の丸製薬所〉は索引になし。 『三田村鳶魚全集 14』(三田村鳶魚著 中央公論社 1977)  p319上段「寛政年間より御城二の丸に於て、御製薬所所建に成りて以来、此弊は遂に止み、医師の薬籠は唯自家所用の品とのみなりたれば、従て官医の権は痛く落たり。」とある 『東京市史稿 皇城篇3』(臨川書店 1974)  p196-197「文政十一年ノ二之丸修理は、二之丸製薬所ノ修理一也…」とあり。  p598「製薬所移転 本丸廻状留 五月七日 天保九年(中略)右、三丸御製薬所二丸江引建直御用見廻り相勤候付…」とあり。 『東京市史稿 皇城篇5』(臨川書店 1974)  p928-929「八日 ○明治廿一年(紀元二五四八年)一月 楓山下 ○城内 製薬所模様替ヲ為ス。…」とあり。

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