参考資料①「武埜八景」 ②「假名畧文 むさし野八景」 巻末より
大久保狭南:名は忠休 字は明夫、五郎兵衛と称し、狭南と号す。 業を大内熊耳に受く。
江戸に住し、勝狭南と称す。文化6年没、年七十三。
狭南集四巻の著あり。 尚狭南の子孫は東大和市清水に在住。
参考資料③「日本人名大事典 1巻」 P533より
: 1735-1809 徳川中期の郷土研究家。
享保20年武蔵多摩郡清水村に生る。本名は五郎兵衛、狭南と号す。
江戸に出で、聖坂に居を構へて研究に耽り、小金井桜樹の碑文転生者として知らる。
著書に「武野八景 1巻」 「狭南集」 2巻がある。
参考資料④「国書人名事典 1巻」
(おおくぼただやす)
大久保忠休:幕臣 [生没]享保16年(1731) 生(一説 元文2年(1737)、没年未詳
文化3年(1806)生存 [名号]名・忠林 [幼名]次郎吉、[字]明夫、[通称]三十郎、五郎兵衛 [号]狭南山人
[家系]大久保直賢の男。母、谷辺焉長の女、妻、永井直賢の女。
[経歴]宝暦5年(1755)遺跡を相続(九百国)徳川家斉に仕える。同六年 書院番士
寛政8年(1796) 若君・家慶付として西の丸に伺候。大内熊耳に館学を学んだ。
[著作]狭南集<文化二刊>武蔵八景編<寛政九>むさし野八景<文化五>
[参考]参考資料④寛政重修諸家 近世館学者若辻目録大成
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