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阿倍野区にゆかりのある文学について知りたい。

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 吉田兼好(よしだけんこう)は、『方丈記』『枕草子』と並んで日本三大随筆とよばれている『徒然草(つれづれぐさ)』の作者です。「つれづれなるままにひぐらし…」で始まる『この作品は、吉田兼好が阿倍野の丸山古墳のふもとに庵をむすんだ日々に書き連ねたといわれています。松虫通の海照山正圓寺(かいしょうざんしょうえんじ)には兼好法師藁打石があり、聖天山公園南入口には吉田兼好文学碑が建てられています。  梶井基次郎(かじいもとじろう)は『檸檬(れもん)』で有名な小説家ですが、肋膜炎悪化のため昭和3 (1928)年に住吉区阿倍野町に住む両親のもとに帰り、昭和5 (1930)年に王子町に一戸を構えて昭和7 (1932)年1月に阿倍野界隈を舞台にした『のんきな患者』を発表します。その直後の3月20日に死去しましたが、王子町には梶井基次郎終焉の地碑が建てられています。  日本浪漫派の代表的詩人伊東静雄(いとうしずお)は、長崎県諫早市出身ですが、京都帝国大学卒業後昭和4 (1929)年に大阪府立住吉中学校(現在の住吉高校)に赴任し、終生教職のかたわら文学活動をしました。住吉区阪南町中3丁目に住んでいたこともあります。 松虫通のポケットパークの伊東静雄文学碑には詩集『春のいそぎ』から「百千の」が、住吉高校校庭の伊東静雄文学碑には詩集『わがひとに与ふる歌』から「曠野の歌」が刻まれています。  小説家黒岩重吾(くろいわじゅうご)は昭和4 (1929)年から住吉区昭和町(現在は阿倍野区)に住み、長池小学校を卒業しています。第44回直木賞を受賞した『背徳のメス』や『昼と夜の巡礼』、短編小説『相場師』など阿倍野を舞台とした作品を多く残しています。  童謡「サッちゃん」「おなかのへるうた」の作詞でも有名な阪田寛夫(さかたひろお)は大正14 (1925)年に住吉区天王寺町2279番地(現在の松崎町3丁目)で生まれました。幼年時代に南大阪幼稚園に通っていたところから、平成18(2006)年園内にサッちゃん詩碑が建てられました。母の晩年を描いて第72回芥川賞を受賞した短編小説『土の器』には著者が洗礼を受けた南大阪教会のことが、『庚申街道』には松崎町3丁目にあった自宅のことが、『わが町』には阪南町や帝塚山が描かれています。  大阪を代表する小説家織田作之助(おださくのすけ)は、昭和9 (1934)年に恋人宮田一枝と料亭「松虫花壇」を訪れましたが、この料亭は現在のキリスト教短期大学の敷地内にありました。同大学の北門入口辺りに、織田作之助来遊の地の碑があります。織田作之助と一枝は昭和14 (1939)年に阿倍野筋2丁目にあった料亭「千とせ」で結婚式を挙げました。  アナーキズム詩運動で有名で大阪文学学校の校長でもあった小野十三郎(おのとうざぶろう)は、昭和8 (1933)年から阪南町2丁目に住み、93歳で自宅で亡くなりました。  王子町一丁目商店街にあるビリヤード「保名」は、昭和17 (1942)年から営業されていますが、店主の南川千代さんをモデルにした『玉撞き屋の千代さん』は、長男の南川泰三(みなみかわたいぞう)の作品です。  文の里の大阪市立工芸高校は多くの芸術家を輩出しましたが、小説家若一光司、『浪花怒り寿司』で第4回織田作之助賞を受賞した長谷川憲司、『乳と卵』で第138回芥川賞を受賞した川上未映子も工芸高校出身です。  ほかには阿倍野を舞台にした作品として、SFを中心に活躍した作家眉村卓が出身校阪南中学校をモデルにした小説『なぞの転校生』、『ねらわれた学園』、森本万里子が女調理師の修行の日々を描いた『阿倍野筋』、阿倍野筋に面した印刷会社を隠れ蓑とした一味が暗躍するという高村薫の『神の火』、開高健が旧制天王寺中学校と阿倍野界隈を舞台に終戦前後の混乱の中で生きる自らの姿を描いた『青い月曜日』があります。  以上阿倍野と文学のかかわりについては、『阿倍野区歴史講座』に詳しく記載されています。また大阪府下各地にゆかりのある近代文学者を調べる時は『大阪近代文学事典』が、大阪府下を舞台にした近代文学作品を調べる時は『大阪近代文学作品事典』が参考になります。

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