鉄山業を営むかたわら、牛の改良繁殖に心を砕き、体型が優美で堅牢、性質温順な千屋牛を作り上げた。 寛政2年(1790)阿賀郡千屋村(現新見市)に生まれる。天保2年(1831)、家業である鉄山業と「千両箱を飛び石にして江戸まで行く」と言われるほどの莫大な資産を受け継ぐ。 砂鉄を採取するための鉄穴流(かんななが)しは、大量の濁水や土砂を高梁川に流出させ、下流一帯の農家に被害をもたらすこととなる。下流の人々からの抗議が何度も起こっていたが、その度に上流では死活問題であることを理由に退けていた。期間や場所を限定するなどの案も採用されたが、この対立がなくなることはなく、辰五郎のときには江戸幕府の裁きを受けるほどの騒ぎとなった。 辰五郎は、その一方で莫大な資産を背景に牛の改良を企図し、元来小型種であった千屋牛を、大型で丈夫、性質のおとなしいものに改良した。その優良な牛は「大赤蔓(おおあかつる)」と呼ばれ、役肉用牛として喜ばれた。 完成した千屋牛を広く販売するため、天保5年(1834)辰五郎は自宅を提供して千屋牛馬市を開設する。以後、毎年この市に集まる人々の評判によって、千屋牛の名は全国的に知られるようになった。また、牛市自体も農繁期の後に開催されたので、芝居や露店が集まり、次第に大変な賑わいをみせるようになったという。 現在でも岡山県種雄牛の多くは、この系統といわれており、岡山県では、碁盤の上に乗る千屋牛の像を千屋ダム近くに設置して、その性質の良さをアピールしている。 その他、太田辰五郎の名は社会的にも様々な貢献をしたことで知られた。 天保4年(1833)、6年(1835)のいわゆる天保の大飢饉のときには、飢えに苦しむ人々のために、莫大な財産を使って救済にあたった。また、江戸城西の丸普請用の小割鉄400束を献納したこともあった。 天保8年(1837)に、花見村(現新見市千屋花見)の農民が強訴を計画したときには、辰五郎は彼らの説得に当たり中止させた。 これらの功績により、永代苗字帯刀を許されている。 嘉永7年(1854)に没する。 【参考文献】 「伝記 太田辰五郎」/太田忠久著/太田辰五郎顕彰会1991 ほ か。
参考資料:『岡山県総合文化センターニュース』No.425、http://www.libnet.pref.okayama.jp/center_news/news425.pdf
太田忠久著『伝記 太田辰五郎』,太田辰五郎顕彰会,1991,
備考:M2004110213442443366
↧