大岡越前守忠相、吉良上野介義央、などに見られる「○○守」「○○介」のことを「受領名」「官職名」などといいます。もともとは7世紀半ば以降の律令制において成立した国司の職名でしたが、室町時代以降は名前ばかりの官位として、公家や武士の身分、栄誉の表示にすぎなくなり、明治維新まで続きました。江戸時代においては、徳川家康が慶長11年(1606)に武家の官位執奏権を手に入れ、以降は将軍が朝廷に奏請する権利を持ちました(『徳川幕府事典』他より)。
官職名は領地とは関係のない場合が多く、「近世武家官位の叙任手続きについて」(『日本歴史』第586号)によれば「家の慣例や“好み”により選択して申請し、それを幕府が許可するという仕組み」で、「贈答儀礼として、将軍に官位御礼を行い、朝廷に官金(物)が納められ」ました。
『近世武家官位の研究』では「幕府より諸大夫を仰せ付けられると、即日に希望の名乗りを「伺書」という形で幕府に差し出し、決定された」例を挙げ、「同姓同名とならないか、老中など然るべき役職にある者の名前に抵触しないかなどを吟味し、支障がなければ当人が伺出た名乗りをそのまま認めたのであろう」としています。伊達家や島津家が代々名乗ることの多い「陸奥」や「薩摩」、また幕府の所在地である「武蔵」などは名乗ることを憚られていたようです。
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