現段階の研究では、紫式部の晩年について詳しくは明らかになっていないようであるが、寛弘二年(一〇〇五)
または寛弘三年(一〇〇六)に一条天皇中宮彰子の宮廷に召し出され、長和二年(一〇一三)に一度宮仕えを
退き、寛仁二年(一〇一八)頃に再び彰子に出仕し、翌年取次ぎ女房として姿を見せた、というところまでは通説
になっている。
回答プロセス:①まずは自館OPACにて、「紫式部」をキーワードに検索。
『紫式部』 ( 今井源衛著. 吉川弘文館, 1966 )がヒット。
「十 晩年」(P214~)に、晩年四年間の様子が記述されている。
※ただし、後述の同著者の1982年の論文「紫式部の晩年再考」にて、自説を撤回している
②CiNiiにて、「紫式部」「晩年」をキーワードに検索。
数件ヒットした。
「紫式部の晩年再考」( 今井 源衛.『日本文学研究 』(18),梅光学院大学 ,1982 )
同著者論文「晩年の紫式部」( 『日本文学』14(6),日本文学協会,1965 )と、
前出の『紫式部』に対する批判を受け、紫式部の晩年について再考している。
「紫式部の伝記」( 久保 朝孝.『国文学 解釈と教材の研究』 40(3), 学灯社, 1995 )
紫式部の伝記研究の現状について、様々な文献から諸説を比較し、まとめている。
さらに、【問題点】として『大局的には伝記的事実は資料の許す限界にまで至っている』
という三谷邦明氏の論文( 「解説」(『源氏物語Ⅱ』 ( 有精堂,1970 ))中の一文を引用し、
今後の研究における注意点を述べている。
「紫式部の一生」( 秋山 虔.『別冊国文学』 (50), 学燈社 , 1997 )
紫式部の生涯について記述されているが、やはり不明確な部分が多い。
③ジャパンナレッジにて、「紫式部」をキーワードに検索。
『国史大辞典』
『日本大百科全書』
紫式部の略歴が記述されているが、これまでの資料同様、
晩年については明らかにされていない。
④結論------------------------------------------------------------------------------
現段階の研究では、紫式部の晩年について詳しくは明らかになっていないようであるが、
寛弘二年(一〇〇五)または寛弘三年(一〇〇六)に一条天皇中宮彰子の宮廷に召し出され、
長和二年(一〇一三)に一度宮仕えを退き、寛仁二年(一〇一八)頃に再び彰子に出仕し、
翌年取次ぎ女房として姿を見せた、というところまでは通説になっている。
それ以後の生活、没年について、角田文衞氏は『紫式部伝』( 法藏館, 2007 )にて
「紫式部の歿年は、彼女の伝記を遶る最も困難な問題のひとつであって、
史料が極度に限定されている現在、その解明は殆ど不可能に近いものがある」
と、前出の三谷氏同様に述べているように、明らかにするのは大変難しいようである。
参考資料:『紫式部』, (今井源衛著. 吉川弘文館, 1966)
参考資料:『源氏物語Ⅱ』 「解説」, (三谷邦明.『源氏物語Ⅱ』 有精堂,1970)
参考資料:オンラインデータベース<ジャパンナレッジ>( http://www.jkn21.com/top/corpdisplay ),
参考資料:『紫式部伝』, (角田文衞.法藏館, 2007)
参考資料:今井 源衛. 紫式部の晩年再考. 日本文学研究.. (通号 18) 1982.11. p13~24 ISSN 0286-2948,
参考資料:秋山 虔. 紫式部の一生(付・系図). 別冊国文学.. (通号 50) 1997.05. 213~215 ISSN 0387-3757,
参考資料:今井 源衛. 晩年の紫式部. 日本文学 / 日本文学協会 編.. 14(6) 1965.06. ???? ISSN 0386-9903,
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