資料1『国史大事典 1 あ-い』国史大辞典編集委員会 編,吉川弘文館, 1979.
p.841「岩国藩」
「輝元の養子秀元(中略)二男就隆が(中略)ともに早く諸侯の列に加えられたのに反し,吉川氏は広正以後も長く宗藩毛利氏の家老を以て遇せられたために宗支の関係は次第に冷却し、家中諸士の反目もはなはだしかった。」
「幕府が関ヶ原の功績を高く評価し、仙台藩の片倉氏、徳島藩の稲田氏と並んで吉川氏に殊遇を与えた」
「幕末に至り毛利敬親は時勢にかんがみ、吉川氏の処遇を改めて藩内の一和を図ろうとし、文久三年(一八六三)二月、京都から帰国の途中を岩国に立ち寄って末家昇格のことを経幹に約束した。」
「明治元年(一八六八)三月十三日、朝廷は敬親の上書によって吉川氏をその末家とする旨の宣旨を賜わり、ついで閏四月十九日に諸侯に列し、六月九日さらに城主格をゆるされた。これにより岩国藩と称した(攻略)」
資料2『藩史大事典 第6巻 中国・四国編』木村礎 [ほか]編 ,雄山閣出版, 1990.
p.321~332 岩国藩
p.321「二代正広は、(中略)寛永十一年(一六三四)諸侯に列すべき機会を逸し、これより幕府から正式に大名として遇されないことになった。」
p.332「[参勤交代]吉川氏は家格により参勤交代はせず、将軍家・自家の代替わりの時必ず参勤、また特別の時随時参勤する例であった。(中略)陸路は東海道を上下することが多かった。」
p.347~370 萩藩
p.368「[参勤交代]時期 参府四月及び五月 出府四月及び五月 交通路 山陽道と東海道」
資料3『岩国市史 上』岩国市史編纂委員会 編 ,岩国市, 1970.
p.236~237 吉川氏の格式
「岩国藩初代藩主吉川広家は(中略)家康の信任厚く、城持ち大名としての格式をたもっていたのであるが、二代藩主広正の代より、いわゆる藩屛としてのの待遇を受けぬこととなり、以後江戸時代を通じて叙爵のことなく、ついに『武鑑』にもその名を載せなかった」
「明治元年三月、朝廷は、吉川氏の家格を上して藩屛に列し」
資料1~3により、
江戸時代の吉川氏は大名(=諸侯)ではなく、明治元年になって朝廷から諸侯に任ぜられた。
参勤交代については、岩国藩(吉川)は定期的な参勤交代を行っていた訳ではない点で萩藩(毛利)と異なる。
毛利・吉川が参勤交代の際に一緒に移動していたか否かについては、はっきり確認できる資料は発見できなかった。
2023/03/24追記
資料4『吉川広家』光成準治編著 ,戎光祥出版, 2016.
p.209~230「萩藩の本・支藩関係をめぐって」田中誠二
将軍との親疎に基づく幕府内での吉川氏の扱いが、藩内での扱いに影響を与えたという論考。
参考資料:資料1 国史大辞典編集委員会 編. 国史大辞典 第1巻 (あーい). 吉川弘文館, 1979.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001403293-00,
参考資料:資料2 木村礎 [ほか]編 , 木村, 礎, 1924-2004. 藩史大事典 第6巻 (中国・四国編). 雄山閣出版, 1990.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002028183-00, 4639009410
参考資料:資料3 岩国市史編纂委員会 編 , 岩国市. 岩国市史 上. 岩国市, 1970.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I002599461-00,
参考資料:資料4 光成準治編著 , 光成, 準治. 吉川広家. 戎光祥出版, 2016. (シリーズ・織豊大名の研究, 4)
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000096-I005981252-00 , ISBN 9784864032155,
寄与者:レファレンス協同データベース事業サポーター 寺尾隆
備考:レファレンス協同データベース事業サポーター 寺尾隆さまから以下の情報提供がありましたので追記します(2023/04/26)
当館に所蔵のない資料なので、全文については確認できていません。
家格争論から見る吉川家認識 : 毛利家・吉川家を事例に
根本 みなみ 社会文化史学 / 社会文化史学会 編 (57) 29-40, 2014-03
https://cir.nii.ac.jp/crid/1520572360017523968
https://ci.nii.ac.jp/ncid/AN00111031
https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I025728517-00
https://id.ndl.go.jp/bib/025728517
この論文に次の記述
p.37
おわりに―家格上昇運動の背景―
「萩藩毛利家における吉川家認識を見ていくと、吉元治世から宗広治世にかけて吉川家を忠実な家臣の家
として区別するという姿勢から、先祖を共有する血族として包括する姿勢へと変化していったということが
出来る。」
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