『西成郡史』によりますと、春日出は、もとは四貫島浦と呼ばれる葦原でしたが、元禄11(1698)年、大坂の雑賀屋(さいがや)七兵衛が5年がかりで開墾しました。開拓のとき、突然1頭の鹿が躍り出て、人々に殺されたのですが、雑賀屋七兵衛はそれを嘆き、鹿は春日大社の神使であるとして、手厚く葬り、そこに春日明神を祀りました。そのため、元禄15(1702)年、ここを春日出新田と名付けたのが、春日出の地名の起こりと言われています。
春日出新田は、開発以来幕府領でしたが、享保15(1730)年、和泉国日根郡佐野村(現泉佐野市)の豪商食野(めしの)氏に譲渡されました。食野家はここに別荘を置き、紀州徳川家から譲り受けた数奇屋風の建造物を移築しました。その後食野家は没落し、この建造物は春日出の両替商清海(きよみ)清兵衛の所有となりましたが、庭園には淡路・紀伊・大和・河内・和泉・播磨・山城・摂津の八州の風光を収めたとして、「八州軒」と称されました。『此花区史』、『日本歴史地名大系28-1大阪府の地名1』、『大阪府全志 巻之2』、『中谷徳恭戸長日記』にも記載されています。
後の明治39(1906)年、横浜の原冨太郎がこの建物を譲り受け、横浜市本牧の三渓園内に移築しました。大正6(1917)年に竣工し、臨春閣と名付けられました。昭和6(1931)年、重要文化財に指定され、現存しています。『大阪の歴史2004年1月63号』掲載の「春日出新田賛歌」には、春日出新田や横浜の臨春閣についての記載があります。
春日出にあった庭園は戦災によって失われ、その跡は公園となっています。昭和37(1962)年、この春日出公園内に「八州軒の跡」という碑が建てられました。『大阪春秋36号』、『大阪春秋52号』に碑の写真や説明が載っています。
食野家については、『大阪春秋2号』、『大阪春秋23号』、『大阪春秋24号』に詳しく記述されています。
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