築地町は、近世初頭の尼崎藩青山氏時代に、尼崎城の南の島状の土地に新たに築かれた町です。平成7年(1995)の阪神・淡路大震災により液状化がおこり、復興都市計画・土地区画整理が実施されました。
この際、市道が新たに整備され、歴史的かつ発信力のある名称ということで、町建設当時の藩主青山氏にちなみ、東京の青山通りと同じ「青山」を採用して「東青山線」「西青山線」と命名されました。
東京の「青山」という地名は、このエリアにかつて徳川家譜代の有力大名家である青山家諸家の屋敷が集まっていたことに由来しています。徳川家康のもと関東総奉行を務めた青山忠成を祖とする青山家のうち、忠成嫡男の忠俊の系統が近世後半に丹波篠山藩主となる青山氏、忠俊弟の幸成(よしなり)の系統が寛永12年(1635)から宝永8年(1711)まで尼崎藩主であった青山氏で、のちに美濃郡上藩主となりました。
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