結論から申し上げますと、田中半兵衛を確定することはできませんでした。
「横浜煉化製造会社」に関する情報は見つかりましたので、調査過程とあわせてご紹介します。
※下記に出てくる「横浜煉化製造会社」は、「煉瓦」ではなく「煉化」と表記されています。
1 横浜の人物に関する資料
次の資料を確認しましたが、名前がありませんでした。また、「横浜煉瓦会社」という会社も
見つかりませんでした。
(1)『横濱成功名譽鑑 開港五十年紀念』 有隣堂 1980
(2)『明治大正昭和横浜人名録』 日本図書センター
2 横浜市立図書館デジタルアーカイブ「都市横浜の記憶」
(http://www.lib.city.yokohama.lg.jp/Archive/)
「田中半兵衛」で検索したところ、次の資料がありました。
『諸星千代吉商店40年史』諸星千代吉商店/編 諸星千代吉商店 1932
この本には、「故 田中半兵衛」として写真が掲載されています。
また、p.6に「日本橋の田中半兵衛商店に丁稚奉公」と書かれていましたが、
この資料の田中半兵衛が、御探しの人物であるかどうかは、不明です。
3 煉瓦の歴史についての資料
煉瓦関係の資料の中に、次の記載がありました。
(1)『西洋館とフランス瓦 横浜生まれの近代産業』
横浜都市発展記念館/編 横浜都市発展記念館 2010
p.17に、「横浜煉化製造会社」について書かれており、明治21(1888)年10月に「田中平八」
が社長として会社が設立されていることがわかります。
(『「時事新報」(10月16日)』の記事が掲載されています)。
説明文には、
「「田中平八」、「原善三郎」らを発起人として、1888(明治21)年に設立された横浜煉化
製造会社ですが」
と記載があります。
会社の住所は、「相生町四丁目六十八番地」ととなっています。
(2)『日本煉瓦史の研究』水野信太郎/著 法政大学出版局 1999
3の(1)の参考文献です。
p.140に、次の記載があります。
「天下の糸平として知られた田中平八が煉瓦の製造、販売に乗り出していく。
明治21年5月ごろ着工、同年9月22日には開業式*144に漕ぎつけた横浜煉化製造会社
である。本社は横浜区和生町4丁目68番地、工場は橘樹郡川崎駅在戸手村、現在の
川崎市幸区戸手町に構えた。(*住所の「和生町」は「相生町」の誤字と思われる)
*144)「毎日新聞」第5333号附録、明治21年9月25日」
とあります。
4 『横浜市史』
『横浜市史 第3巻 下』(横浜市/編集 横浜市 1963年発行)のp.46とp.74に、
田中平八と田中半兵衛の名前が両方掲載されています。
p.46には明治11年の大区会の議員選出された六三名の名前が掲載されています。
田中平八と田中半兵衛のほか、原善三郎も掲載されており、田中半兵衛は当時の有力者
であったことがわかります。
p.74には、明治12年に開催された町会議員選挙で当選した40名の姓名が掲載されています。
p.46と同じく、田中平八と田中半兵衛のほか、原善三郎も掲載されています。
田中平八と田中半兵衛は、別人であり、同時代の町会議員であったことがわかります。
5 新聞記事
ヨミダス歴史館(読売新聞オンライン記事データベース)、聞蔵IIビジュアル(朝日新聞オンライン
記事データベース)で、検索しました。
(1)「絵具染料問屋」(「読売新聞」1886年11月10日)
東京日本橋区鉄砲町にある、「絵具染料問屋」の広告です。
そこに、田中半兵衛の名前が掲載されています。それ以外の情報がないため、この田中半
兵衛が、関係のある人物なのかどうかは不明です。
(2)「亡父半兵衛の弔い」(「読売新聞」1885年年5月12日)
田中半兵衛の葬儀の知らせです。
この記事に書かれている住所は「横濱相生町四丁目」です。
記事には、「田中半三郎」、親戚「田中菊次郎」、「田中平八」という3人の名前が掲載
されています。
「横浜煉化製造会社」の住所と同じであり、社長の「田中平八」の名前も書いてあります。
しかし、「横浜煉化製造会社」の設立は、1888(明治21)年なので、この記事の田中半兵
衛は、設立より前に死亡していることになります。
(3)「横濱電燈会社改革のこと」(「朝日新聞」 1891年6月19日)
この記事に「前重役の田中半兵衛」との記述があります。「前重役の田中半兵衛」所有の
株についての話のため、この田中半兵衛はこの時点で存命であることがわかります。
ただし、これまでに出てきた田中半兵衛と同一人物なのかは不明です。
(4)「横浜煉瓦製造会社、事業不振と多額の損失で解散」(「読売新聞」 1893年1月8日)
という記事があります。
「事業不振で昨年末に解散することになった」と書かれています。
ここには、田中平八も田中半兵衛も名前はありませんでした。
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